解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

幾つかの治療法〜①薬物治療

パトナムは薬物治療を補助的治療と位置付けている。これがDIDには薬が効かないという定説である。柴山雅俊に至っては「解離への治療的接近」と題している。では「治療的接近」でない「接近」とはいったいなんだろうとふと考えたりする。

わたしの場合は薬物治療は時に有効だった。わたしを含めて多くのDID患者がクリニックの外来もしくは救急を初めて訪ねるタイミングは間違いなく日常に何らかの支障を来たしている。

症状は1人ひとり異なると思われる。わたしの場合は発熱である。だから内科のクリニックへ行ったし、抗生物質を投薬した。DIDの初期治療を広義に解釈して初診が内科であったという患者はわたしだけではないと思うけれどそれは違うだろうか。

現在わたしはかかりつけ医として内科と整形外科と精神科へ定期的に通っている。DID患者の疼痛症候群については別に書きたいと考えているが経験を積んだ内科医や整形外科医は、DID患者の初発の時期の痛みや発熱が、内臓もしくは骨または筋肉などの結合組織から来るメカニカルなものであるかどうかを見極めることが出来るはずである。

もちろん精神科領域の疾患からメカニカルな不具合を起こすことだって頻繁にあるのでここら辺はきっちりと区別すべきではないと思う。だからDID患者のざっくりとした臨床は「身体の方も悪いよ」とされるべきだと考えたりする。

さてなんやかんやで精神科治療が始まったときもDID患者の多くは初診からDIDと診断されることはとても少ない。そしてそれは推奨されない。どれだけメンタルの強い大人であっても「アナタ多重人格ですよ」と精神科で言われても絶対に受け入れられっこないだろう。頑張って受け入れたけどあとでやっぱり誤診だったなんてのはホント許されないことだと思う。

ということで良識も経験もある精神科医はこの人ひょっとしてDIDかな?と思っても初めのうちは「統合失調症」又は「境界性パーソナリティ障害」と診断することがじっさい的だ。それをあとになって誤診だったとくよくよ悩むDID患者はまず居ないとわたしは思う。

何故なら診断は疑いと銘打ったものだとしても治療を開始するにあたり何か病名は必要であるし、現在「境界性パーソナリティ障害」という診断名は使われていないかもしれないが「統合失調症」と「境界性パーソナリティ障害」とでは鑑別が容易い。患者は希死念慮や自殺企図を引き起こす気分障害を示しているかもしれない。やっちゃって病院に連れてこられることもある。

この状況の初診の患者をDIDと診断することは非現実的である。ここで薬物治療に懐疑的で向精神薬を投与しないなんて精神科医は逆に困る。患者本人も家族もとても疲れているだろう。少し休むために入院をすることも出来る。患者は深く眠るために点滴するかもしれない。それはけして的を外してはいないと思う。あとになって誤診だったと苦情をいうとしてもそれは病院側の人権侵害のシチュエーションに対してである。こうした標準的プライマリーケア云々ではないとわたしは思う。

模範的なDIDの治療はセルフコントロールだとわたしは考える。薬物治療は尚そう言える。

わたしは薬物に過敏に反応する体質である。効いたか効かなかったか。そんなことは本人にしかわからない官能的なものなのだ。なんなら本人にもわからない。効いてるような気もするしそうでないような気もする。

自分が治療を必要としている精神病の患者であることを患者自身が相対化して捉えられない限りセルフコントロールなんてものは無理だろう。「治りたい」「日常を取り戻したい」という強い願いがなければ行きつ戻りつの長きに渡る治療の日々は堪えられはしない。

わたしはDID患者である。なんとなく強い頭の薬を飲んでも眠る以外の改善はない。そんなことをわかってくれる主治医と2人、わたしの場合はまずは向精神薬の離脱を1年くらいかけて行った。

わたしは薬物を離脱してはじめて薬物治療に対する官能的評価を会得した。発熱も痛みもない。日常に冷静さを維持してはじめて薬物を体内に染み込ませたときのあの浮遊感や厭世的な景色を明確に言葉で表現できたといえる。

思えば自分でも薬に対する恐怖心を無闇に煽っていたかもしれない。治療に於ける薬物の働きはそれ以上でもそれ以下でもない。だからと言って補助的とは思わない。体力にも精神にも限界のある患者と患者の家族が病気と供に日常を保っていく勇気を培うまでの重要なサポートをするだろう。

柴山氏は「治療的接近」と書いたがDIDは薬物治療が必ずしも功を奏さず虚しくなる日々があることは事実である。

薬物治療有りきの精神科医は「治療的接近」イコール薬物治療ではない、と発想を変えるべきである。

薬物治療は幾つかの治療のひとつに過ぎない。

どんなことが治療を妨げるのか〜主導権を巡る争い

DID治療における主導権は常に患者の側にある。そもそも如何なる疾患に於いても患者は治療における自己決定権を持っているが、精神病はそれが一筋縄ではいかない。

少し考えればわかる事だ。統合失調症患者に昏迷や錯乱が生じるなら正常な判断力はそのとき失われているし重篤な鬱病の自殺企図は患者本人には辛い日常から解放される唯一の手段だと認識されている。

DID患者の特異性のひとつは、患者が普通の生活を営む、一見なんの問題も抱えていない人であるかのように見えることだ。中には普通でないとはいえDIDでありながら敏腕弁護士や政治家、医師として普通以上の才能を発揮している人々がいる事も事実である。

DID患者を疫学的に見極めるのはかえって不合理な作業になる。生後間もなくからの心的外傷の履歴を外来の初診申し込み用紙に書き込む患者などいないのだ。

DID患者であるという決めてとなる記憶は患者本人にも想起出来ない。

治療の自己決定権とは何もかもを患者が決定するという手続き上のプロセスを示すものではない。ましてや権利を侵害されたと後になって反撃するための切り札でもない。

わたしがそうであるがDID患者は自己評価が低い。過去にどれほど世間から評価された経歴があったとしても脳内の幾つもの扉を開け閉めしながら日々を過ごしていると、まともに考えれば考えるほどそんな自分を化け物としか思えない瞬間がやってくる。

モンスターとしての自分に健全で適切な尊厳を保つ秘訣のひとつはその場所から逃げないことだ。

いつもの如く不調の兆しがやってきた。不穏な雲行きを見て不安になるかもしれないが、有効な治療はいつもその地点から始まるのである。さて今日も会話を始めよう。わたしはため息をつき脈絡なく語りだす。ときに発する主治医へのちっぽけな嘘や虚勢も全て愛すべきわたしの実態に他ならない。

DID患者はモンスターではなく人間である。喜びも苦しみも普通に持っている。治療の主導権を持つとはそんな内面の感覚こそが治療に役立つのだと信じることでもある。

あるDID患者は幼い頃から幻聴があった。そして彼女の弟にも類似の幻聴があった。あるとき弟が言った。「お姉ちゃん、僕頭の中で声がするんだけど」姉は言う。「お姉ちゃんもあるよ、だから大丈夫」

彼女も弟もけして大丈夫ではなかったがその場所でそんな風にして踏ん張っていた。踏ん張ることは不可能ではない。治療の主導権は患者が持つべきである。まあその主導権を駆使して病院に沢山のお願いごとをしたら良いのである。

どんなことが治療を妨げるのか〜治療同盟とはなにか

わたしは治療同盟という用語はパトナムの本で初めて知った。しかしそれ以前にもわたしの主治医はそれらしいことを診察の終わりにやっていたような気がする。

簡単に言うと主治医と患者とのあいだで交わされる約束である。治療に於ける契約のようなものだ。文書化すべきとする欧米の専門書もある。

カウンセリング治療と呼ばれるものにこの治療同盟は必要だとされる。わたしはこの『同盟』という言葉が好きなのだ。

生身の人間は完全では居られない。かつて予約の時間に主治医が遅刻して小一時間を待合で待ったことがある。自殺はしませんと約束したにも関わらず自殺を図ったというわたしの側の契約不履行もある。

治療同盟を堅苦しい、馴染みにくいとする優しさからとして『信頼』や『絆』などを好むドクターは多い。そして教員や施設の職員たち。少しずつです、徐々に信頼を築きましょうとか、絆が強まるのです、という感じでこの言葉は使われる。

DIDの人生は言わば裏切りの連続であった。何度も何度も裏切られた子どもは自己防衛として今度は誰かを裏切ることを1度はやってみるかもしれない。徹底的に深い傷を負ったDIDは無関係の誰かを酷い目に合わせたことがあるのではないだろうか。

DIDの人生は戦場だった。攻撃か、防御か。さてなにをどうすればここを切り抜けられるのか。空気を察知して敵の特質を見抜き弱味を衝くやり方を瞬時に編み出す。DIDには何十年もそんな対人関係が続いて来たのだ。

こんな心には『信頼』や『絆』などSF並みの離れ業なのである。よもやうっかり信じたりしては命が危ないのだ。ほのぼのとしたやり取りで何かを期待して気を抜いた次の瞬間土間に蹴り落とされた。忘れるな油断するなと声がするのだ。

DIDの敵とは何か。

DIDの敵は過去の全てである。

タイムラグを経て飛び掛かり来る脳内の過去の惨状の記憶である。恐怖を伴う体の痛み。長く深い失意に陥れ放置するあの夕焼け空の赤である。負けないように、泣かないように守備よく対処しなければならない。何故ならすぐに次の来襲がやってくるのだ。

初診当時のことだ。わたしは早朝家を飛び出した。解離性遁走だった。会社を急遽休んで追いかけてくれた主人がわたしを捕まえて病院へ連れて行った。その日飛び込んだ診察室で主治医がわたしに言った。

僕に悪行を犯させるつもりですか?悪行?夫は驚いて聞き返した。そうです、予約も無しに勝手に診察をするという悪行です。次の診察は2週間の間隔で、それまで自宅で療養すると先日ちゃんと約束しましたからね。

診察が定期的になりつつあるころのことだった。わたしはこの日今後はそれなりのコンプライアンスを示したいと考えた。主治医はわたしの回復に尽力している、主治医は味方であると知ってからのちわたしの記憶との闘いの勝率は上がっていった。

主治医は敵ではない。一緒に闘ってくれる隣国の同盟国なのである。頑張れるか?うん、とりあえず1ヶ月死なずに頑張るわ。こう書くととても簡単だがこれがわたしと主治医との治療同盟なんである。

どんなことが治療を妨げるのか〜診断の受容がむつかしいのは何故か

DID患者が診断を受け入れることには単純に自分がこれこれの病気に罹っているといった病識を持つこと以上の、DID患者に特異な脳内の力動があることについて書きたいと思う。

パトナムはその著書でDID患者はその治療期間中、つまり診断され寛解するまでの長い年月に渡り、その診断名を100%受け入れることはおそらく出来ないだろうと繰り返し述べている。

わたしの人生をカタチ作った何十年ものあいだ、わたしの脳内には実は何人ものわたしが居るという事実はわたし自身にさえも秘密であった。じっさいこんな論理も通用しない。それが知られてしまうなら何かが終わる。そんな感覚である。情報を漏らすことは道徳的な禁忌であったし、誰かに知られてしまうことは生理的に不浄な出来事にも思われた。

「(患者は)多重人格に関するすべての知識を得ようとし、それを用いて自分が多重人格者でないことを治療者に証明しようとする」(岩崎学術出版社 2000年 p207)。

わたしはこの部分を読んだときまるで自分のことが書かれてあるように感じた。誰かに操られるかのように、取り憑かれたように当時のわたしは熱心に多重人格障害の文献を調査していた。調査の対象は若年性認知症でも境界性人格障害でもない。それは多重人格障害であり解離性同一性障害であった。

このわたしの行動は異常であった。自分は病気ではないと、治療の必要を感じていないのならば通院を中断すればいい。何か治療者に強い不信を感じているのならば転院すればいい。わたしはそのどちらの選択もしなかった。

この力動に対してはコントロールを失っていた。調査が進むほどに「交代人格」という言葉に脳内では拒絶反応を起こしていく。それなのに調査をやめられないのだ。

わたしは記憶の脱落のエピソードを治療者に話さない。それを”したくない”というよりは”報告せねばならないと言われても出来ない”という表現がピッタリであり、隠蔽する、詐称するという方向へ心が動く。

診断の受容はこんな風に難しい。考え方を変えるなどという分野の話ではないと感じている。

そしてわたしの場合は病気についての情報がある程度アップデイトされると心の何処かでじわじわと腹をくくるかのような動きが出始めて来た。その大きな動きのひとつが日記を書くということである。わたしはある日、日記を書くことで記憶の欠落に狼狽えずに居られると学習した。つまり診断を受容することを先送りにしつつも脳内全体は回復を目指しているのだ。

当時主治医はわたしにこう言った。

書いたものをここへ持ってくる必要はない。持ってきても見せなくても良い。もちろん書いてすぐ捨ててしまっても良い。

この「書いたものは捨てる」という方法をわたしは採用し、やがて定期的に大量の文章を書く習慣を身に付けていった。

この時期、つまり治療の初期の思考の背反や、脳内が混沌とした感じは今も厳密には無くなってはいない。DID患者は心の内面を整然と理性的に説明することはきっと不可能であろう。まともに説明出来たような印象があればそこには少なからず虚偽が混ぜられているような気がしてかえって居住まいがわるい。

さらりと書いているがわたしの主治医が診察室でDIDの専門家として、患者にこ難しい知識やカウンセリング理論を浴びせかけなかったことは治療のスキルであった。少なくともわたしのような自尊心の脆い、闘争好きな個性の患者にはそれが必須であろう。

一度ならずDID患者が診断を受容する瞬間、DID患者はまるで武器を捨て白旗を掲げ塹壕からおそるおそる出てゆく捕虜に成り下がったかのような言い知れぬ恐怖と不安に包まれている。そういうことをどうか治療者は知っていて欲しい。

そして診断の受容はファイトが始まるゴングの鳴る瞬間でもある。「わたしはそんな厄介な病人ではない」と言い張る人格が声を荒げるのである。

それは治療者には自分が一体誰の何を治療しているのだろうかという失意を乗り越えねて進まねばならない耐久レースであるが、患者サイドではいろいろな景色が見えてくることも事実である。

次回はDID患者と治療者の治療同盟について少しずつ書いてゆきたい。

どんなことが治療を妨げるのか〜DID患者はどんなふうに信頼関係を学ぶのか

DID患者と診断されてもされていなくても日々の生活を侵食してくる様々な症状から回復していくには長いプロセスが必要となる。

わたしの場合、出生時からの長期間の解離のミラクルが孤立無援で生き長らえる唯一の手段であった。大人になり治療が始まる。たとえそれが回復を目指しているのだとしても、長い長い時間をかけてコツコツと積み上げてきた何かを取り崩していく。現実の建物がそうであるようにそれがただ粗悪だからという理由で即座に爆破して終わりというわけにはいかないのだ。手間をかけて解離構造を分解していく。そして使えるパーツは残すことも出来る。

DID患者にとって治療の妨げとなるものはたくさんある。大きく分けて妨げは2種類。患者の内面の要素、そして治療者に生じる対DID必至の難所であろう。

振り返ってみればわたしは何も35歳になるまで治療開始を待たされていたわけではない。もっと早くに治療を始めていればよかったと今さらどうにもならないことを思う日もある。

出生時から適切な養育を受けられなかったわたしは重度の愛着障害を患っている。愛着障害は根の深い病いである。愛着障害を主観的にひとことでいうならば”この世界にはわたししか居ない”ということである。

解離が脳内の生理的な反射から生じていることは専門家により十分に研究されている。わたしの場合おそらく、ごく普通に小学校でこの子は困った子だね、と大人の誰かが振り回されて手を焼く、みたいな好機と時期を幾度も逸してしまったのだろう。

そんな意味で適切な養育とはその子に特別にあつらえられたぴったりと寄り添ってくれる大人の存在だと言えるだろう。

新生児は生後6か月間で言語体系をほぼ習得するという。新生児を取り囲む大人が皆聖人君子である必要はない。しかし愛着障害を次第に患ってゆく子どもというのは、じつは日和見な対人関係をたっぷりと習得して歪んでゆくのだろう。

歪みは厄介だ。少々の歪みは見過ごされ易い。そして歪みはさらなる歪みを増幅する。歪んだパーツが廉直なものを構築することはない。地球の重力が必然であるように建造物の歪みはいつかはその建物を崩落させる。愛着障害日和見な心の動きしか知らない。そしてそれが正しいとさえ考えている。

しかしやがていわば偽物だらけのマーケットのような敵か味方かの不明瞭なやりとりの非情さに良心が疲れを感じる瞬間が来る。愛着障害の子どもの扱いにくさは実はその子どもの良心機能の発達を示している。それは好機なのである。ピンチはチャンスというやつだ。

さて解離であるが解離はポスト愛着障害である。つまり愛着障害が発展し切って一周回って戻ってきた感じである。愛着障害を”この世界にはわたししか居ない”だとすれば解離はもう世界のことなどどうでもよいのだ。解離の脳はその子どもに”この世界から居なくなれ”と指令を出す。

わたしが辛苦に耐え35歳まで生きてきたことに勲章をくれようとしてもわたしは辞退したい。わたしは実はこの世界では35年も生きては来なかった。この世で見るもの聞くもの、情報の半分以上を自分のタイミングで遮断して進む。解離の手法は徹底している。

では解離障害を患っている人間はどんなふうに信頼関係を学ぶのだろうか。

わたしが35歳で治療をはじめたきっかけはわたしが大いなる厄介者になったことであった。不安神経症強迫神経症睡眠障害パニック障害等、わたしは当初沢山の病名を付けられたが、ある時パズルのピースが揃うかのようにDIDという病名が浮かび上がったわけである。

DID患者が精神科外来患者の臨床像をフルスペックで持っているとはそういうことであろう。

わたしは適度に病院をたらい回された(自らドクターショッピングをしたかもしれませんが)がそのおかげで何度打たれても起き上がるゾンビのような今の主治医に出会うことができた。

DID患者にとって信頼関係とは大きな課題である。

細かな治療の手法も含めて今後しばらくはこの続きを書いてゆきたい。

除反応とはどんなものなのか

DIDの治療に除反応がある。簡単に言えば記憶を取り出して整理することだ。

その夜わたしは17歳だった。父は酷く酔っていた。父は手には包丁を持っていた。父がわたしを追い回す。抵抗していたはずのわたしは一転父に向かって殺るなら殺れと言う。父は殺しはしない顔を少し切るだけだと言った。お前の顔はよくない顔だと父が笑う。蘇る記憶。父に顔に刃物を突きつけられた瞬間の記憶は鮮明なものだ。

ひとたび始まった除反応は止められない。脳の蓋はある時開いて、そうして封印しておいたはずの記憶の場面をランダムに再生し始める。除反応は当事者にとってただただ厳しい。

診断されて治療が始まった年である西暦2000年をわたしにとってのDID元年とするならB.C.DIDでは人格交代と身体の不調はあったが除反応は無かった。除反応がわたしの生活を乱しはじめたのはA.D.DID、つまり精神科治療が始まってからである。

ある夜高校生のわたしは手に包丁を持っていた。眠っている父の傍で包丁を手にしたわたしが立ちすくんでいる。母が起きてきて父を起こす。翌朝わたしは父の運転する車に乗り、母に付き添われて大学病院を受診した。道中何度も吐き気を催し車を降りて吐いた。中待合から診察室への長い灰色の廊下。診察室のリノリウムの白い床。若い男性のドクターの白衣。翌日わたしは高校を休んだがしばらくすると何事もなかったかのように再び学校へ通い始めた。

酔った父に追いかけられた夜とわたしが包丁で父を殺そうとした夜とではいったいどちらが先であったのか。想起される記憶の瞬間の映像は鮮明だが、そういうことがわからない。

除反応で想起される記憶は時系列を持たないことが多い。因果関係は不明瞭なので道徳的定義は不能で、いったいわたしは被害者なのか加害者なのか、強い恐怖と罪悪感とが合わさって瞬時に沸き起こる。

愛着関係を培っていた養育者からの支配力よる虐待。はたして何処からが世話で何処からが暴力か。生まれながらに暴力に晒され快楽の原則を見出せないで育った子どもは反射的に沸き起こる生存本能で事態をやり過ごしてゆく。なけなしの良心は貞操を差し出し、肉体を滅ぼしながらも歯を食いしばりひたすら生き長らえた。

かたやDIDは脳内の城壁の東西南北に強固な人々を配置して様々な出来事に対処して進んできた。思春期を過ぎ、野心と物欲をガソリンに合理化された思考回路で突き進む緊急事態に強固な人格たちの警告がF分の1揺らぎをもたらした。わたしはこれまでに殺人や窃盗を幾度も寸止めしている。

容赦ない除反応。襲い来る強い感情で心拍数は上昇し毛細血管が膨張する。今すぐここから逃げなければならないと辺りを見回してはそこにない人影に怯え叫び声を上げる。

『子どもの貴女が耐えられたのですから大人になった今、それを克服する力は既にあるのです』

専門書にはこうした記述がよくあるが、すべての除反応が患者に自信や誇りを、ましてや平安を即座に取り戻させるわけでない。

時にはわたしはメジャートランキライザーを処方され記憶を塗りつぶし眠り続けた。それは統合失調症患者の被害妄想への対処と同一だと言える。

ある日記憶の中で幼い子どものわたしが父の膝で父の手のひらを眺めている。父の左手には第一関節から先が潰れて無くなっている指が二本あった。ダメになった父の左手をわたしは念入りに調べていた。

わたしが35歳で発病すると母はわたしとの同居を酷く怖がった。おそらくあの時の殺人未遂事件を思い出したのだ。

わたしの両親は高校生のわたしを警察へ付き出すことをしなかった。いつか自分たちが殺されるかもしれないというのに依然としてわたしを同じ家に住まわせていた。指を切断した父は障害者手当を受けていなかった。きっと父の側の何かの不払いがあったのかもしれない。

いろいろなことを考える。

呆然とするしかないような押し寄せる高波のような記憶に逃げないで向かっていくのは何故だろう。

ライフステージの変化と共に繰り返し訪れる危機の記憶の傍らで子ども時代の何気ない日常の一場面が蘇る。懐かしい父や母、コミニュティの隣人たち。彼等もまた厳しさのさ中を火の粉をくぐり抜けるようにして生きるしかなかった。歌声と慟哭。

DIDは被害者である。自分を被害者であるとして受け入れていく心の力とは沸き起こる自分の感覚をありのまま見つめる力のことである。当事者であることから逃げてはならない。自ら記憶の白黒を区切っていくのだという揺るがぬ意思を培うことから逃げてはならない。

バドリング。波はセットでやってくる。

わたしはまるでサーフィンをするかのように、繰り返し訪れてはわたしを呑み込む絶望という高波を懸命に足元へ足元へと押し込め続けるのだ。

転移神経症とはどんなものなのか

DIDの症状に転移神経症がある。陽性転移は恋愛のようであり、陰性転移では虚無や絶望を共有してどちらも患者と精神科医双方の感情を掻き回し、コミニュケーションを滞らせ、関係を複雑にする。

私なりの考えだが、患者に転移を起こさせないような精神科医は力量不足である。転移は面倒だ。なければないで越したことはないとする精神科医もいる。

私はこれまでほとんどすべての診療科で主治医と出会った途端に強烈な転移を起こして来た。おそらくわたしの心がポジティブとネガティヴの鋳型を幾つか備えており、それは関心を持って近づいてくれる誰かを直ぐさま捉えて苦しめる蟻地獄のようなシステムとなっているようだ。

通院が始まり半年がたったころ主治医が他府県へ転勤となった。DIDを診てくれる精神科医はそんなに当時数多くなかった。悩んだ末に150kmほど離れた主治医の転勤先の精神病院へ月に1度通う日々が始まった。

長く続いたわたしの転移はその時に始まった。電車が好きなわたしは鈍行に揺られて遠くの町の病院へと移動するのを楽しみとした。朗らかに病院入りするものの、診察終わりの主治医とのお別れが出来ない。

帰りたくない。まだここに居たいのだ。何か強力な磁石で引っ張られるような感じがする。踏ん張って病院を後にする。建物を離れる。

心細さで居ても立っても居られない。わたしは辺りを見回す。誰でもいい。今すぐ誰かこの手を取って微笑んで抱きしめてはくれぬものか。根拠のない悲哀と絶望で帰りの電車の中ではわたしはまるで広漠とした砂漠を長く彷徨い枯渇した旅人のようだった。

当時のわたしはひと月にだいたい大学ノート一冊分の日記のような文章を主治医に提出するようになっていた。日記以外にも時には詩を書いたり、短編小説を書いたりした。たいていは女々しい泣きごとをつらつらと綴った。

全く自由に伸び伸びと書いた。わたしはそのようにしてわたしと主治医との関係性を構築した。主治医はわたしの母になり、兄になる。恋人になり、親友となる。そのノートには何を書いても許された。尋ねてみたいことがありますと何十もの質問を書いた日もあった。治療者はそれに応える必要はない。治療は進展した。書くことでわたしは少しずつ脳内をオープンにしていった。

転移神経症をこれがそうなのかとわたしがすっかり理解するまでに実際には時間が掛かった。わたしにそれが可能だったのはおそらく脳内人格のひとりーそれは精神科医の人格であるがーの勤勉な調査と分析によるものである。

彼の名はジョージ・ピーターズ。‥‥顔はジャン・レノに似ている。(言語は日本語です)

ジョージ・ピーターズは診察後の強烈な心細さから作り出された新しい人格だった。ある日の診察で、帰り道の記憶がすっかり失われていた。わたしはその日処方された薬を受け取らずに帰宅した。事態は深刻だった。その時期のわたしが自殺をし易かったのだ。

そのころにはわたしはおそらく主治医を信頼し始めていたと思う。主治医は患者の放つ強い感情を出来る範囲で受け止める。DIDは拒絶に敏感である。主治医はDID患者の持ついわば蟻地獄のような底無しの救済欲求を怖れないことだ。感情の渦巻くその場所で逃げないで踏みとどまることだ。

信頼。絆。安心。それまでのわたしの脳内にはそれらのタグは無い。

転移神経症の構造を知ることで、DID患者はそれまで敵になったり味方になったりして混乱を引き起こすばかりであった対人関係の謎が解けるようにもなる。そうした感情の嵐に耐えているのは自分だけではないということを思い巡らすならばよもや感情の高波ごときで死ぬるものかという闘争心も湧いてくる。何よりそうした時間の累積が新しい関係性を形造る土台となる。

ねぇわたし先生が大好き。

そんな囁きと共に、その日わたしの人生には大いなるTAKE2が訪れていたのである。 (これは2015.5.20の記事に加筆したものです)

そして精神病院へ通い始めたころのこと

脳への刺激を避ける。車のクラクションと町の喧騒。甲高い話し声と絶え間無く続くテレビコマーシャル。そういうもの全てが我慢ならない。

主人とわたしは3人の娘を連れて転居した。知人のつてで山に近い場所の一戸建ての借家を借りて移り住んだ。

当時わたしたちは、数年前に離婚して一人暮らしを始めたわたしの母を引き取り同居していたが母との暮らしは今考えれば非常にストレスフルだった。母は理解されにくい芸術肌の性格で、お味噌汁の具が気に入らないなどとトゲトゲしい言葉で人をなじったりしたものだ。わたしは長年のことでそんなことには慣れていた。母もわたしを御しやすく扱いやすい下僕のように捉えていた。

きっかけは今も定かでは無い。ひとたびバランスを失ったわたしの精神は次々と問題行動を起こしその矛先は最終的に母へと向かう。

当時のことはほんとうに思い出しにくい。

このままでは貴女はお母さんを殺してしまうでしょう。

そんな言葉で諭された。

引越し。母との別居。わたしは母親を捨てた恩知らずの娘、その上精神病を発病した汚れた者して親族から綺麗に排斥された。

精神科受診。わたしは打ちのめされる。当時のわたしに社会性と呼べるこじんまりした人間関係があったとして、その隣人たちは揃って狭量であった。わたしたちのコミニュティはあやしげなプライドで立っていた。社会的弱者と呼ばれることを潔しとしない、けして長持ちのしない薄っぺらい自尊心。

精神病院は二週間にいちど、主人は毎回必ず有給を取って車で運んでくれた。

発作。

攻撃性と感情の爆発。

旦那さんきついやろ?奥さん、おうちでみれます?

主人は主治医から入院を促されるも断るのだった。わたしが何より入院を嫌っていることを知っていた。

多重人格という診断をわたしはその時まだ受け入れられない。診察室でもわたしは殆ど話さない。はっきりとした期間を記録していない。わたしが主治医に日記のようなものを提出するようになるまでにかなりの時間が必要だった。

淡い色。おぼろけな、弱々しい色合いのものにわたしは惹かれていく。

病院の帰りは決まって琵琶湖へ寄る。淡水の静けさ。単調な里山の景色。

変化があったのは2年後、主治医宛の手紙のような日記のページ数が徐々に増えてゆく。大学ノート一冊にびっしりと書き連ねた文章は診察前に目を通すというレベルを超えてわたしは乱暴に主治医の机にノートを放り投げた。

圧縮された感情が吹き出しはじめていた。

(2015.5.12)

35歳〜DID患者になるまで②

ナルコレプシー

二人目のわたしの主治医もまた内科の開業医であった。年齢はわたしの一回り上。彼はスキーの上級者であった。初診日、彼の右腕は肘から先がギプスで覆われていた。雪山を滑っていて滑落、骨折したという。

転院して間も無くわたしは高熱を出した。40度の熱が一週間下がらない。抗生物質を次々代える。入院はしません。わたしは譲らない。わかりました、これで熱が下がったら内視鏡するって約束してください。主治医は穏やかにわたしを諭した。

熱が下がり内視鏡をした。癌は見当たらず我々はひと安心だった。

二週間に1度、午前の診察のラストにわたしは診察の予約を入れていた。わたしのあとに診察を待っている患者はひとりも居ない。わたしたちは時間に妨げられること無く話すことが出来た。わたしが依然として精神科を拒んでいたために主治医が考え出したシステムだ。

わたしは筋書きを書いたレポート用紙を見ながら話す。そうです、ナルコレプシーではないかと。

彼は初めの開業医の友人であり、従ってわたしを多重人格だと信じている。一方わたしは多重人格について調べれば調べるほど自分は当てはまらないと感じていた。

シュナイダーの一級症状というものがある。分かり易い症状のひとつは脳の中の声。わたしは解せなかった。脳の中の声? 誰だって脳の中で何かしらの声はするはずだ。脳の中で声がするからそれがなんだというのか。脳で声がしてなにかそれが困った事態を引き起こしたことなどはないのだから治療の必要はない。

ナルコレプシーねえ‥‥。主治医は左手で不器用にPCのキーボードをパチリパチリとやりながらぼやく。

その後、わたしが解離性同一性障害として日常に支障を来たした初めての事件が起きた。その年の春次女が高校に入学、オリエンテーションに付き添ったわたしは説明会の会場で失神した。目覚めた時、わたしに失神以前の記憶が無かった。自分がどうしてこの場所に居るのかわからない。

若年性認知症。わたしは考える。

数日後主人が主治医に会いたいと言う。何?何を話すの?主人はわたしの目をじっと見る。覚えてないのか。主人は眉間に皺を寄せて黙りこんだ。

主人が主治医に語ったエピソードは驚くべき事柄だった。前日の夜わたしは主人に暴力を振るったという。抵抗する主人を壁に追い詰め脅した。その時の腕力と声はまるで中年の男だったと主人は主治医に語ったのだ。

翌夜には目が覚めるとわたしは暗い洗面所に倒れていた。裸で手には出刃包丁を握っている。すっかり怯え切った主人は傍らで呆然と立ち尽くしていた。幸い私たちにはどちらにも怪我は無く警察沙汰にならずに済んだ。

内科医は精神科医宛に長い紹介状を書いた。わたしは自分用の紹介状のコピーを願い出た。貴女が読めばショックを受ける表現もあるが読めますか。読みます。わたしは譲らない。

待合で名前を呼ばれる。カウンターの扉を開けて後ろで髪をひとつに束ねた、若い背の高い女性の看護師が分厚い紹介状の封筒をわたしに手渡す。両手で、まるでそれが何かの表彰状でもあるかように。

わたしの脳の中には壁があるようだった。壁ではないそれは高い塀だ。上空で空が繋がっている。だから塀ではないフェンスのような区切りだ。わたしはわたしを呼ぶ声にもうずっと気付いていた。懐かしい。切なく胸が痛むあの声だ。

それは秘密の声。

念入りに仕舞われた秘密の声。

誰?

わたしはコールし続けた。

(2015.5.10)

35歳〜DID患者になるまで

調子はどうですか?

仕事を辞めたころこんな風に挨拶されることがよくあった。この日本語のニュアンスは明解。どこか悪い所は無い?である。もっとわかりやすく言うと普通じゃない感じ。大丈夫? 変な感じになって無い?

解離性同一性障害としてのわたしの不調を見出したのは当時住んでいた自宅近所のクリニックの内科医である。もし彼のクリニックに行かなければDIDの治療は始まらなかった。感謝している。今はどうしているだろうか。

その年の春わたしは人生で2度目の韓国旅行。趣味で手伝っていた同人誌の仲間との旅行。ゆったり電車で釜山からソウルまで北上。早朝散歩するわたしは地元の人間に間違われ公園や市場で声を掛けられる。早口で韓国語をまくし立てられなんとか返す。片言の韓国語が通じるという嬉しさもあった。アガシ、アニヨ、イルボネヨ。わたしは日本人です。わたしはとうとう1度もそう言えないままソウルまで辿り着き帰国。

帰国後発熱。何日も熱が全然下がらない。電話帳で調べて辿り着いた彼のクリニックの診察室の机はひどい散らかりようだった。どうしてうちへ来たの?いや、だって1番近かったから。当時彼は開業医の父親が突然亡くなって勤務先の大病院を退職しクリニックを継いだばかりだった。僕の専門は麻酔科でさ。彼は力なく笑いつつも表情は険しい。血液検査の結果わたしは胆管癌の疑いで大学病院へと紹介となったのだ。

幸い癌は今も見つからないがそのクリニックに受診した時期を境にして、ありとあらゆる不調がこれでもかと出始める。

発熱は収まったものの血液検査の数値はなかなか改善しない。細々した仕事をやっつけながら大学病院のベッドの空きを待つ。わたしは当時商業誌に評論や短編小説をぼちぼち載せてもらえるようになっていた。物書きで食べていく。長年の夢が叶わんとしていた。多少の無理は願うところだ。今病気になるのは本意ではない。焦りもあった。そして入院。わたしは検査リストを見た。検査はひとつではなかった。入院期間はひと月はかかるという。一旦は検査を予約するも数日後一転検査を全てキャンセルしわたしは退院した。貴方がしたく無いという検査をこちらも無理やりするわけにはいきませんから。教授が言った。

大学病院からの手紙を持ってクリニックへ行くと彼が不機嫌そうに何やら呟く。あの教授に楯突くとは君は将来大物になれるよ‥‥。わたしはその日は朝からひどい目眩で歩けないほどだった。目眩を治したい。じゃこれかな。彼は分厚い薬剤の手引きをパラパラとやりながら薬を処方。薬局で薬を待つ間わたしはその日の午後の出先への仕事のキャンセルの電話を入れる。薬を飲むと目眩は治まったが翌朝は突然の咳で呼吸が出来ないという症状に襲われた。明け方何十分も咳をし続けクタクタになり、午後診でクリニックを訪ねた。

喘息かなあ‥‥。彼は眉間に皺を寄せながら薬を処方。明日から二泊三日で取材の仕事なのだとわたしが言うと彼はわたしの顔をじっと見て死ぬよ、喘息で死んだ人僕知ってるよと言う。わたしは帰宅して電話を掛ける。ごめんなさい、そう、ドクターストップなの、うん、またね。わたしはホッとしていた。わたしは考える。わたしは本当に物書きになりたいのだろうか。目眩の薬、喘息の薬、胃腸の薬を飲んで眠る。その夜わたしは下血した。大量の鮮血であった。直腸静脈瘤の破裂だった。

その後も四肢麻痺や関節痛が周期的にやって来る。わたしのカルテには病名が増えていった。クリニックを受診して1年が過ぎていた。わたしは1年前キャンセルした大学病院での検査を再び受けるべく入院した。わたしはもう抵抗しなかった。抵抗しようにも頭も体も疲れきっていたのだ。

調子はどうですか?

主治医が尋ねる。

わたしは無反応。日々様変わりする痛みその他の症状に打ちのめされていた。引きこもり暮らす日々。鬱状態に近かった。

主治医はわたしに精神科受診を勧めた。打ち返すように拒絶するわたし。わかった、じゃあ僕に話してよ、今週末時間を取るからさ。主治医の眼差しが温かくわたしを包む。わたしは強烈に主治医に惹かれていく。主治医も君は特別さと言わんばかりだ。一瞬で我々の瞳は見つめ合い離れない。

転移だった。

もちろんその時にはそんなことはまだ知りようもない。わたしは面倒なことに関わり合いたくはなかった。その時はそれだけだ。親密は回避する。そうやってそれまで進んできたからだ。

わたしは主治医にお別れの手紙を書いた。転院したい、紹介状を書いてくれと願い出た。紹介状を受け取り帰宅すると主治医から電話があった。

教えてほしい、僕の何がいけなかったのか、僕を怖がらないでほしい、君を助けたいんだ。君はおそらく多重人格だ。

わたしは丁寧にお礼を言って通話を切った。

大きな町の大きな本屋を訪ねて回る。多重人格の本を探した。多重人格の行動の矛盾は荒ぶる波のように周囲の人間を巻き込んでいく。保護者を求めつつも一方では親密を拒む。相応しい救済をひとたび見出した時フルコースで現れる華々しい身体の不調。

先生はどうしてわたしを多重人格だと思うんですか?わたしは主治医に尋ねる。

プラセボだよ。

プラセボ

君は薬が効きすぎるんだ。君とよく似た多重人格の女性に僕は前居た病院で1度出会ってるんだ。

わたしはあの日多重人格について余りにも知らなさすぎた。

その後もその主治医には数年前まで時々会いに行っていた。

わたしお利口さんになったでしょう?

どうかな?主治医が笑う。

今はもう会うことが無いが元気でクリニックを続けてくれているといいな。心からの感謝を込めて、そんなことを思うのだ。

(2015.5.10)