解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

どんなことが治療を妨げるのか〜診断の受容がむつかしいのは何故か

DID患者が診断を受け入れることには単純に自分がこれこれの病気に罹っているといった病識を持つこと以上の、DID患者に特異な脳内の力動があることについて書きたいと思う。

パトナムはその著書でDID患者はその治療期間中、つまり診断され寛解するまでの長い年月に渡り、その診断名を100%受け入れることはおそらく出来ないだろうと繰り返し述べている。

わたしの人生をカタチ作った何十年ものあいだ、わたしの脳内には実は何人ものわたしが居るという事実はわたし自身にさえも秘密であった。じっさいこんな論理も通用しない。それが知られてしまうなら何かが終わる。そんな感覚である。情報を漏らすことは道徳的な禁忌であったし、誰かに知られてしまうことは生理的に不浄な出来事にも思われた。

「(患者は)多重人格に関するすべての知識を得ようとし、それを用いて自分が多重人格者でないことを治療者に証明しようとする」(岩崎学術出版社 2000年 p207)。

わたしはこの部分を読んだときまるで自分のことが書かれてあるように感じた。誰かに操られるかのように、取り憑かれたように当時のわたしは熱心に多重人格障害の文献を調査していた。調査の対象は若年性認知症でも境界性人格障害でもない。それは多重人格障害であり解離性同一性障害であった。

このわたしの行動は異常であった。自分は病気ではないと、治療の必要を感じていないのならば通院を中断すればいい。何か治療者に強い不信を感じているのならば転院すればいい。わたしはそのどちらの選択もしなかった。

この力動に対してはコントロールを失っていた。調査が進むほどに「交代人格」という言葉に脳内では拒絶反応を起こしていく。それなのに調査をやめられないのだ。

わたしは記憶の脱落のエピソードを治療者に話さない。それを”したくない”というよりは”報告せねばならないと言われても出来ない”という表現がピッタリであり、隠蔽する、詐称するという方向へ心が動く。

診断の受容はこんな風に難しい。考え方を変えるなどという分野の話ではないと感じている。

そしてわたしの場合は病気についての情報がある程度アップデイトされると心の何処かでじわじわと腹をくくるかのような動きが出始めて来た。その大きな動きのひとつが日記を書くということである。わたしはある日、日記を書くことで記憶の欠落に狼狽えずに居られると学習した。つまり診断を受容することを先送りにしつつも脳内全体は回復を目指しているのだ。

当時主治医はわたしにこう言った。

書いたものをここへ持ってくる必要はない。持ってきても見せなくても良い。もちろん書いてすぐ捨ててしまっても良い。

この「書いたものは捨てる」という方法をわたしは採用し、やがて定期的に大量の文章を書く習慣を身に付けていった。

この時期、つまり治療の初期の思考の背反や、脳内が混沌とした感じは今も厳密には無くなってはいない。DID患者は心の内面を整然と理性的に説明することはきっと不可能であろう。まともに説明出来たような印象があればそこには少なからず虚偽が混ぜられているような気がしてかえって居住まいがわるい。

さらりと書いているがわたしの主治医が診察室でDIDの専門家として、患者にこ難しい知識やカウンセリング理論を浴びせかけなかったことは治療のスキルであった。少なくともわたしのような自尊心の脆い、闘争好きな個性の患者にはそれが必須であろう。

一度ならずDID患者が診断を受容する瞬間、DID患者はまるで武器を捨て白旗を掲げ塹壕からおそるおそる出てゆく捕虜に成り下がったかのような言い知れぬ恐怖と不安に包まれている。そういうことをどうか治療者は知っていて欲しい。

そして診断の受容はファイトが始まるゴングの鳴る瞬間でもある。「わたしはそんな厄介な病人ではない」と言い張る人格が声を荒げるのである。

それは治療者には自分が一体誰の何を治療しているのだろうかという失意を乗り越えねて進まねばならない耐久レースであるが、患者サイドではいろいろな景色が見えてくることも事実である。

次回はDID患者と治療者の治療同盟について少しずつ書いてゆきたい。