解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

人間を辞めたい

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水滴(ルシアナ・ジュリー)

 

1989年にわたしはフクロウの小説を書いた。当時アニマという動物の雑誌を定期購読していた。突然廃刊になった。フクロウの特集記事を読みフクロウのことを結構毎日考えていた。そんなふうにフクロウの物語を作った。

 

何故フクロウにしたのか自分でもわからないが、人間の物語をその時はまだ書き始めることが出来なかった。フクロウを描いては人間のことを書いた。そんな小説だった。

 

井伏鱒二のファンだったということもある。井伏鱒二にはファンレターは書けてないが。書けばよかったなあと考えることもある。

 

夜行性というフクロウの性質もある。先月美容院で読んだ雑誌で個人が夜行性か昼行性かということは遺伝子レベルで決まっているというのを読みびっくりした。50歳を過ぎた頃からわたしは徹夜が出来なくなった。だが自分が本質的な夜行性人間だと気づいた気がしてなんだか嬉しかった。

 

わたしの書いたフクロウは雌(メス)で、もちろん私自身を投影したものだった。弱いげっ歯類(カヤネズミ)を狩猟したり、コウモリたちを蹴散らしたり、乱暴な日々を送る。

 

フクロウというものは果たして記憶力や論理的思考力はあるのだろうか。フクロウの耳は左右対称ではない。フクロウは首が無いようで、実はすごくよく動く首を持つ。フクロウは三頭身だ。

 

フクロウが夜、人間の生活を覗き見することなんてあるのだろうか。フクロウがわたしの部屋の窓辺に来てくれたらいいのにな。

 

とかそういうことを考えながら書きました。

信頼

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ハチのムサシは死んだのさ

(平田隆夫とセルスターズ)

 

わたしは4年前からオンラインで英語を習っているが、先生はバングラデシュに住んでいるアメリカ人女性である。ある時わたしは彼女に手紙を出したいと言ったが彼女はそれは難しいと言った。バングラデシュはインフラが日本ほど整っていないそうだ。

 

わたしが初めて誰かに手紙を書いたのは幼稚園のときだった。卒園間近になって、受け持ちの女性教員がわたしに自分の宛先と名前を教えてくれたのだ。わたしは母に頼んで封筒をもらい、人生初の宛名書きをしたことを覚えている。一番難しかったのは自分の名前だった。わたしはその日自分の名前をきれいに書きたいとすごく思っていた。それでなんども自分の名前を練習したが、画数が多くなかなか上手くいかなかった。

 

エイジへの返信を書いたわたしは差し出し人である自分の名前を今一度思い出してみた。1年前彼に"ハングレ"ファンレターを書いた時、わたしはどの名前を使っていたのだろう。返信の宛名はわたしの戸籍名だったのだから、わたしが戸籍名を使ったことは間違いない。

 

しかしその後の心境の変化により、わたしは戸籍名を使う気持ちにはなれずにいた。当時わたしはいくつかの名前を持っていた。封筒の差し出し人の欄にどの名を書けばわたしの気持ちはしっくりと落ち着くだろう。いろいろ試して差し出し人を決めたことを覚えている。わたしにとっては自分の名前同様、住所の字面というのも重要だった。

 

わたしは幼稚園を卒園したときから自分の家の前に郵便局への投函ポストがあればいいのに、と心から思っていた。手紙を書ける相手を見つけてはさくさくと手紙を出していた。返信用の切手付きの封筒を同封することもあった。どこかのなにかへの懸賞応募ハガキもお手の物だった。

 

それらはひとえに郵便局への鉄壁の信頼の上に築き上げられた日常であった。バングラデシュに手紙を出せないのはバングラデシュのカントリーサイドには町名と番地という概念がないからで、郵便局制度に似たものも事実上ないに等しい。

 

わたしは当時人間不信に悩んでいた。人間だけではない、社会全体への強い不信感だった。なにもかも信じられない、という気持ちがベースにあった。毎日がモヤモヤしていた。

 

ある日自宅の郵便受けにどこかの誰かからの手紙が入っている。ここまで届くのには2、3日は経過している。手紙の内容はもはや差出人にとっては過去の事柄となっている。わたしにはそうしたタイムラグがすこぶる安心だった。穏やかに手紙を読み終える。

 

ハチのムサシは死んだのさ。それはまだ吹っ切ることは出来ずにいたけれど。

歌

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ジャルジネーラ(オルランド・シルヴァ)

 

わたしが9歳の時、珈琲ルンバという曲が流行していた。昔アラブの偉いお坊さんが、という歌である。わたしはこの曲の替え歌をすごく歌っていた。それはHNKのなにかの番組で作られた替え歌で、歌の歌詞は全て人間の臓器名だった。サビだけを今も覚えていて、大動脈〜大静脈〜、と歌い、留めは十二指腸だった。

 

わたしの音楽中毒は父によりもたらされた。父は常識外れのダメ人間であったが音楽が好きで、1日中音楽に触れていないと生きられないような人だった。わたしは生後間もなくからのなにかしらの音楽を聴かされる環境で育った。

 

オルランド・シルヴァ(1915〜76)はブラジルの歌手で、今では忘れ去られているようだが、資料によればブラジルでは割と有名なようである。わたしは先月初めてオルランド・シルヴァの曲を聴いた。わたしはここ半年ほどブラジル研究に没頭している。ブラジル音楽研究はその一部である。

 

わたしはこのジャルジネーラという歌が気に入っていて、今は毎日聴いている。ではジャルジネーラとはどういう意味か。ブラジルポルトガル語の単語ジャルジネーラには2つの意味がある。ひとつはオーバーオール。服である。もうひとつは植木鉢。

 

ジャルジネーラは古い曲で詳細な歌詞がわからない。だとしてもわたしはこの曲がとても好きである。この曲の情景を「オーバーオールを着た庭師が植木鉢を持って微笑んでいる」ということに勝手にしている。

 

クラシック音楽が好きなせいか、日本語の歌詞が直接迫ってくるJ popが苦手である。わたしの"ヤケクソ"ファンレターに返信を書いてくれたシンガーソングライター瑛二(仮名)の作る歌は歌詞という歌詞がほとんど断片的であった。

 

わたしは瑛二の作る歌も好きだった。脳内では歌のイメージが固まってのちすぐ解かれ、瞬時にまた持ち上がった。彼の歌う日本語の言葉たちは上がり下がりする美しいメロディの従順な奴隷で、メロディの終結と共に尻切れトンボとして宙に浮いていた。

 

いいじゃん…。わたしは思ったのだ。

 

 

自発

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さまよいの果て波は寄せる(荒井由実)

 

インディーズ。インディペンデント。在野。無所属。件の歌手からの手紙は極めて個人的で非常に誠実な無責任に本能的に浮かれ調子で楽しいものだった。わたしは返事の返事を書き、彼との文通は何年も続いた。

 

果たして彼はシンガーソングライターであったのである。

詩人(小説家ではなく)

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風・雲・明日(栗コーダーカルテット)

 

1989年はわたしの作家元年でもあった。うつ病、父の自殺未遂、実家の崩壊と両親の離婚、ドタバタとではあったが祖国の地を踏んだこと。1989年、わたしは生まれて初めて小説を書いた。小さな同人誌にわたしが投稿したことを知った母はなにを書くつもりなの、と尋常ではなかったが、わたしという人間はファインでもグッドでもなかった。誰に何を言われようが全くお構いなしだ。

 

子どもたちが眠るとわたしは昼間脳内に書き溜めた文章を紙に起こした。朝まで眠らない日もざらにあった。その頃のわたしは睡眠を取らないでも生きられた。貪欲と傲慢、強い承認欲求、自分の出生に関して、また成育環境に対しての飽くこと無きルサンチマン。世知辛い世で死なずに生き残る者には生き残る也(なり)の素質がわたしにはあったのだろうと思う。わたしは腹を立てていた。国家主義と民族浄化、日本人のわたしを韓国人だと勘違いしたソウルの女子高生たち。全てに対してわたしの憤りの炎は絶えることなどなかったのだろうと思う。

 

さて彼から手紙というのは、1989年に働き始めたレコード店の棚で見たCDで知った、インディーズレーベルの歌手へ、わたしが書いた、当時の絶望と嘆き、涙と少しの可笑しみとが入り混じった、お前の顔が自殺した友人にそっくりなのだ、と一方的に論じたファンレターへの返信だった。そして返信が来たことをわたしは別段驚かなかった。

 

わたしは子ども時代からファンレターを書きがちだった。ラジオやテレビにも投稿したし、友人への手紙というカタチのものなどは人が聞けばびっくりするほど多く書く質(たち)の人間だった。

 

小説を読んでファンレターを書くこともよくあった。作家へのファンレターはたいていエッセイ集を読んでから書いた。好きな俳優へファンレターを書くこともある。そういうときなどは俳優の所属事務所からブロマイドとサイン色紙入りのていねいな返信がきたものだ。

 

しかし総じて、地方で地味に暮らしている友人からの定期便に比べ、そうした作家や芸能事務所からの返信の類を受け取ったときの感動はじっさい長続きしないものだった。結局のところ、会ったこともない演者たちというのは、徹底的に架空の世界に在って、直接わたしの日常に関わるということはないのである。

 

自分の作家デビュー(同人誌ですが)がわたしの生々しい人生をいとも簡単に架空の存在、偽りの言葉、わかりやすく言えば青森県のねぶた祭のハリボテみたいなものへと変えた。わたしは小説家ではなく詩人になろうと決めた。わたしの書くものはみんなわたしという存在の浅瀬に散らばる細々としたプラスチックやガラス片に成った。

 

 

 

手紙

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マイウェイ(フランク・シナトラ)

 

死んだ同級生はわたしから見れば言わば明朗な性格の人だった。東京の私大を出、広告代理店に勤務した。投身自殺は米国出張の前日であったという。うつ病になっていたのではないかということも聞いた。亡くなる直前、わたしは彼からの電話を受け取り損ねた。それで折り返しごちゃごちゃとした留守番電話をわたしは彼に残した。

 

もしわたしが投身自殺をしたら友人たちはなんと言っただろう。まさかあいつが?あんな馬鹿みたいに能天気なやつが自殺?いやまさかうつ病には見えなかった。果たして1989年はわたしのうつ病元年だった。その2年前のことだ。父は自殺をして死に損なった。

 

父は首の骨を折る重症を負って長期入院し、母は長く続けた飲食店を廃業することを決めた。店を売却し、少しのお金と、わたしは数脚の椅子を貰い受けた。退院し社会復帰をした父は店を売ったお金を母と分けて離婚をした。両親の離婚はわたしには自然な成り行きに感じられた。わたしはどちらとも音信を継続した。どちらも孫に会いに川沿いの借家へ時々やってきた。

 

父の入院中、わたしは父の部屋からCDを数枚持ち出した。全てバッハのオルガン曲だった。退院後、わたしは父にCDを返却しなかった。父が死んだらもらおうと思っていたCDだったのだ。生き返った父はわたしの家に来てCDを返せ、と言った。自分の入院中に娘のわたしがそのCDを盗んだことをどうやら父は気づいたらしい。わたしがレコード店で働き始めた理由の一つはそんな経緯だった。同じ音源の輸入盤CDがズラリ並ぶ棚に魅了されたのだった。

 

あれから30年が経ち、今ではわたしはそのシリーズのCDを30枚全て持っている。そしてごく最近そのバッハのシリーズを毎朝聴いている。父の自殺と友人の自殺だけではない。縁つながりのある人たちがその頃に何人か自殺をした。自殺をしないでいるのはあとは自分だけのように思えた。それが1989年だった。

 

そのうちにわたしは川沿いの家に住み、三女を出産した。いろいろなことを忘れて過ごしていた。彼からの手紙を受け取るまでは。

川沿いの家

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ドラマ(チルズポット)

 

1989年はそんなふうに過ぎた。韓国旅行の翌春、長女と次女を保育園に預け、わたしはレコード店で働き始め、団地を離れ、川沿いの借家に引っ越しをした。地元のレコード店に来客した高校の同級生とこんど遊ぼうね、と約束をしてすぐの6月、件の同級生は高層マンションから投身自殺をしてしまった。

 

彼の父親は公務の役職にあり、葬儀では投身自殺は交通事故だと隠蔽されていた。彼の恋人は葬式に来ていなかった。わたしはあとさきもなく彼女に電話したが、電話口の彼女はなにか要領を得ない返事を繰り返すばかりだった。彼女は死んだ恋人に腹を立てていたのだ。当てのない怒りをわたしにぶつけるばかりだ。わたしは電話を切って一人泣いた。

 

なにもかもが堪(こた)えた。連日の気分の落ち込み。不如意な喪失感と根拠のない罪悪感。数ヶ月が過ぎ、とうとう眠れなくなった。同級生の自殺の理由を知りたいと思ったわたしは何人かと連絡を取り、彼の恋人にやったような不躾な問答をやたらめったら続けた。こういうことこそが定石なのだと言わんばかりわたしの内面の闇は深まっていく。

 

ある日、わたしは血迷ったかのような行動に出るのだ。とあるインディーズバンドのボーカルに手紙を書いた。軽々と書いた。すらすらと書いた。レコードからCDへの過渡期のレコード店内でわたしはそのインディーズバンドを知ったのだが、容貌が死んだ同級生に何処となく似ていたのだ。

 

乱暴な手紙。良くないことをしたと思う。なにしろ泣きながら過ごす日々に疲れていたのだ。助けて欲しいと藁をもつかむ行動がげんじつ何一つつかむことがないこともお定まりで、わたしは自分の日常がおかしな事に成っていくのを止められなかった。

 

何故なら死ぬのはわたしのはずだったのだ。わたしがまっ先に死ぬ予定だった。わたしは彼が好きだった。彼はレコード店にわたしを助けに来てくれたのではなかったか。彼の自殺というのはまるで全くわたしの死だったと言えるのだ。

 

風刺人生

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夏色(ゆず)

 

ツアーはバスで高速を走り、ソウルから10日をかけて最終日済州島まで南下した。1989年の韓国はパルパルオリンピックの直後で国中に活気があった。どこへいっても活きのいい人々の笑顔が印象に強かった。何日目か、わたしが珈琲を買い、まったり景色を眺めているとツアーガイドの女性がわたしに本当は日本人じゃないね、と尋ねた。流暢な日本語だった。

 

わたしは言葉にきゅうした。旅行中父は「俺たちは日本人だ」と幾度も言った。あちこちの観光名所で言っとくがなと念押しするようにニホンジンだを繰り返したのだ。わたしが黙っているとガイドさんは大丈夫多いから、最近は、とほほ笑んだ。在日です。わたしは言った。

 

あとで判ったことだがわたしたちは激辛料理を辛いとひと言も言わなかったらしい。そしてなりより父の雰囲気は韓国人そのものだったらしい。ガイドはそのうえわたしの顔が韓国の人気タレントにそっくりだと言った。たしかにわたしはとある観光地で女子学生たちに握手を求められた。自分の容貌がニホンジンではないという事実はわたしをすっかり複雑な心境に陥れた。

 

 

 

 

 

 

喰われる

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アマポーラ(アルフォンソ・オーティス・ティラーゾ)

 

韓国旅行へ行こうと言い出したのはその時すでに母と離婚して、とっくにもう同じ家族とは言えない雰囲気をかもしだしていた父だ。わたしはこれは厄介なことに巻き込まれるんじゃないかな、と薄々勘づいていたが別れた両親が一緒に旅行に行こうと言っているのを放置することは出来なかった。

 

出来なかった。わたしはいつも選択に余地がなかった。旅行会社の人からはお定まりの電話が掛かってくる。あのお、お父さん、費用の方まだ納めてくれませんけど…。わたしは父を恫喝するのだ。父は素直になった。うん、だから!いくよ、わたしも。

 

まさかのまさかだが、両親はそれが初めての韓国旅行であった。まさかもトサカも我々家族はほんの10年前に帰化したばかりだ。だったらハワイかグアムにでも行けばいいのに、とわたしは思ったが、そこはやはり韓国なのだという。そんなときの両親は優等生ぶった顔つきだ。

 

1989

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夢見るシャンソン人形(フランスギャル)

 

 

この頃毎日のようにあの1989年のころの日々を思い出す。今から30年以上まえのことだ。

 

今思えばわたしはあの頃、なんだっていつまでもあの可笑しな両親の近くでさまざまなとばっちりを受けながら、わらわら暮らしていたんだろう。あの人たちは見た目こそは大人だったが、内面はたいへん生々しく、自制や自律が不得手で、まるで思春期の泥々した感情を全く分かりやすく周囲に発する人たちであった。