解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

主人格とは誰のことなのか

DIDの本に「主人格」とあり、主人格はその他の人格をコントロールする、ゆえに主人格であるわけなのだが、実のところわたしの場合この主人格がいったい誰なのかがわからない。

2000年の10月、多重人格の疑いとなり精神科治療が始まった。手に負えない心身の不調はその数年前から既に始まっていたが、2000年の精神科治療の開始は更なる不調の激化の始まりでもあった。

わたしはおそらく何十年もの長きに渡り様々な種類の不調を文字通りの不調とは捉えてはいなかった。1人の精神科の主治医という生身の人間がわたしというDID患者を相手に一貫してリアルな感情のやり取りを機械的に踏ん張り続ける。それはある時は物差しのように、またある時は天秤のようにわたしのそれまでの行動の当たり前を異常であると評価した。

極度の対人不安から生じた非現実的で妄想的な状況の解釈がそうして幾度も堰き止められた。

それは本当にそうだろうか?

主治医のこのひとことは小さなプロペラ機がきりもみして墜落してゆく時のような恐怖(それはいつものことなのだが)を鎮めるきっかけとなり、わたしはもたもたとコントロールを取り戻すのだ。

それをするのは主人格ではない。複数なのだ。それは何人ものわたしなのだ。

それは大揺れのハンモックで昼寝をするような感じに似ている。ハンモックには何人ものわたしがひしとくっ付いて丸くなっているのだ。ハンモックは大揺れだがいた仕方ない。わたしはわたしの過去を変えることは出来ない。人が聞けばびっくりするような経験を振り返っては「あれは大変なことだった」と認識する作業なのだ。

抑うつ、無気力、希死念慮。しかし大揺れはいつか必ず収まるのだとわかっている。墜ちてゆくのではない。着地するのだ。地に足が付くとはこのことである。素足で踏ん張れば足の裏が痛むのは当然のことだと、そんな風に思えないこともない。

アルバン・ベルク (1885 - 1935)という作曲家がいる。12音技法で有名なオーストリアのピアニストである。

12音技法とはいわゆる不協和音と評される音楽だが、安易に調和しないで進むメロディだとも言える。固結びをほどくのだ。それは混沌ではない。乱調でもない。まとまることをしないという約束の特異な調和である。

わたしはベルクやシェーンベルクの12音技法のピアノ曲を大変心地良く感じるのだが、こればかりは感覚なのでただ心地良いと表現するしかない。DIDだからそう感じるのだろうかと何年も考えてきた。

同じ理由でフリッパーズギター「ラブアンドドリームふたたび」も好きだ。この曲は歌詞がとにかくめちゃくちゃなのだ。

ドライフルーツで的を打つ僕らは見栄を張るばっかりの詰まらないドーナツトークが止まらないんだけれど、それだってまるで向こうの見えない花束のように素敵じゃないか、と歌い上げる。

こう書けば筋が通っているから不思議だが曲をさらっと聴くだけでは何を言いたいのかさっぱりわからない摩訶不思議な歌詞が続く。

だけどラブアンドドリームふたたび、なのだ。

わたしは愛と夢をあきらめない。

決してコントロールをあきらめないのだ。

それがずっとまとまらないという約束で調和するというわたしの現実なのである。

(2016.1.1)

交代人格とはどんな感じなのか

多重人格の最たる「あるある」それは交代人格なるものであろう。今日はこれについて「わたしの場合」を書きたい。

わたしは友人に自分が多重人格障害であることをそれほど話してはいない。それほどというのは話していたり、話していなかったりである。ちゃんと話しているのは数人だ。

この人には話したほうがいい、そうだそのほうがいい、わたしはきよぶたの意気込みで「‥‥まあ世の中には”解離性同一性障害”っていう脳の病気があるんだけど‥‥まあ90年代の米国の一人の精神科医がね‥‥」ともごもご。

すると彼女または彼が「知ってるよ。それで今喋ってるのウサ男?」などと返してきたりする。これ。これよ。リアル多重人格。赤っ恥だ(病気とはいえこの状況は恥ずかしいわけです)。

人づてだが交代人格の万引きに悩む患者さんを知っている。それ系の本には知らぬ間に見知らぬ男と肉体関係を持ち泥沼になるなどとある。交代人格の交代のポイントとなるのはひとつの事だ。交代が必要な危機的状況での回避策としてのピンチヒッターだ。

多重人格障害は嗜癖を持つことが多い。わたしは随分子ども時代(10歳)に既にアルコール嗜癖であった。真夜中過ぎどんなに眠くても一升瓶の二級酒を飲みながらであれば宿題を済ませることが出来た。出来たと書いているがわたしが覚えているのは最初の一杯までだ。これは普通に新橋辺りのサラリーマンの最終乗り遅れ、記憶ない事件と似ているかもしれない。

そしてそのアルコール嗜癖も20歳の時の妊娠でなんとか収まっている。間違いなく嗜癖であったし、間違いなく断つことが簡単であった。おそらく多重人格障害の人ならば同じ様な不思議な経験をしているはずである。多重人格障害には極めて強固な人格が存在する。そして彼または彼女が危機的状況を回避する。

交代人格は「感情の断片化」であると言われることがあるがわたしの場合はそうではない。

⚪︎⚪︎子、5歳、悲しみ担当。××男、9歳、怒り担当などと本屋さんの専門書にもあったりするが、結晶化された人格は一緒に年も取るし、彼または彼女は一人のニンゲンなので悲しんだり喜んだり、時には食べたり飲んだり、踊ったり歌ったり。

悲しみ、怒りなどわかりやすく対応し易い感情を表出させる症状はおそらく診察室サイドの描写であり、ひとたび結晶化された人格は常に一緒に居てわりと普通の人間臭い存在である。臨床論文などでは交代人格にもちゃんとプライバシーの配慮がされていて仮名としてくれているものもある。嬉しい限りである。

交代人格というのであれば何故動物が脳内に存在するのか。兎、猫、犬はわりとポピュラーだ。ペンギンというのも読んだことがある。

言語体系を持ちコミニュケーションを取れるものもあればそうでないものもある。わたしは170cm程の身長の背広姿の兎の幻視を見続けた時期があった。カフスのところからもわもわと白い毛が出ていた。よく隣で正座をしていた。正座をし背広を着た兎が現れると決まってわたしは失神した。

DIDをPTSDと捉えることで除反応をし、奇妙な幻視は消える。DIDの危機的状況での代打の個性によっては緘黙となり、難聴ともなる。被害妄想を語るかと思えば誇大妄想で鼻を膨らませていたり。動き過ぎで休息を取らず燃え尽き症候群にもなる。自損自傷衝動に駆られたり希死念慮に襲われたり。以前「DIDは精神科的症状をフルスペックで持つ」と上手い表現をしてくれた男性がいた。

家族がやきもきするのをよそに朝が来れば何事も無かったかのようにアンドロイド並みの鉄の心臓で周囲を驚かしたりもする。

結晶化されない一打席限りのピンチヒッターは雰囲気だけを脳に残したりすることがある。自分がDIDだとわかるまでわたしはどうしてこんなにも自分は幽霊を見るのだろうかと本当に怖かった。ドアをノックする音や風も無いのにカーテンが揺れる。

ある時は「わたしは庭の山茶花の妖精です」と台詞をいう人格にも出会ったことがある。あとでわかった事だがわたしの脳内人格たちはたいそう演劇好きであるのだ。

こんななんやかんやを友人に説明したいと思うポイントはたったひとつ、目の前の友人が混乱している時である。そんな時、友人たちは必ずこう言う。

「なんか今日別人みたいで気味が悪い」

ここ数年でこう言われることが減った。友人は減るばかりで増えていないということもある。

大切なのは毎日朗らかに生きていくことである。どんな病気を患っていたとしてもそれは同じだ。早寝早起きを守ること。適度な運動を続けていくこと。健全な自尊心を保ち、時には人に頼り、基本おとなしくお利口にする。

まあこんなのは誰だってやっていることだよね。

(2015.11.27)

大人になっても困ること〜虐待の再現と虐待者を理想化すること

虐待を再現する行為は指摘されなければ自覚出来ない。わたしは大人になってからも被虐待児になり易い。権威に支配され管理され言いなりになる。そうした力動を理路整然と説明出来るなら困ったことにはならないし、まあそれならセラピーへ通う必要もない。

わたしの主治医は診察日と診察日のあいだわたしが何かしでかしていないかを巧妙にチェックするのだが時々老婆心で先回りして要らぬお節介を言ってくる。

その人はどんな人?何歳くらい?それでなんて答えたの?わたしが適切な対応が出来なさそうだと判断した主治医はこう言う。今までもそういうことあったよな、あの時それでどうなったかを思い出せるか。うん、わかってる、気をつけるよ。

振り幅は小さいがこれがつまり虐待の再現である。わたしは主治医から不本意な支配と管理をされているにも関わらず心の奥深くでは安心している。この瞬間、わたしには目の前のなぎら健壱が普段とは違う〈スーパーなぎら〉に感じられるのだ(主治医はなぎら健壱似である)。これが分かり易いパターンの「虐待者を理想化する」である。

わたしが19歳の時だ。わたしはひとりの男性と知り合った。彼はバイト先の常連客で、毎日きっかり午後4時になるとカウンター席に座った。年齢は30代半ば、品の良いサックスブルーの欧州車に乗り、薄い色付きのボタンダウンシャツにウールのカーディガン、茶色のローファーを履き、煙草は吸わない。砂糖なしの珈琲にミルクを少し入れて飲む。わたしは何故か彼を先生と呼んでいた。

わたしは当時、親密関係が怖かった。相手が気の知れた同級生でも長年の幼馴染みでも2人きりになるのはとても怖い。その時はもう既にDIDのベテランだった。「重要人物を酷い目に合わせる」という自分の癖をわたしはとても恐れていた。

近づく者を容赦しない。場合によっては引きつけてから痛めつける。根拠は無い。殺られる前に殺ってやれという長年の習性だ。

ただし彼だけは別だった。わたしは彼との関係をそれは大切にしていた。だからわたしは彼がわたしを詳しく知る前にわたしから離れてくれたらと願ったが彼は4時にカウンター席にやって来て笑顔で珈琲を注文したし、わたしは嬉しくて笑顔で珈琲を出した。

今思えば彼は定職に就いていなかった。午後4時に疲れた風でもなく珈琲を飲みに来る。わたしと彼は特別何を話すというでもなかったがある日突然電話番号を尋ねられたわたしは帰り際紙切れに番号を走り書きしてお釣りと一緒に手渡した。午前中だったり、夜中だったり、何度か電話でとりとめない話をした。

今になって彼を思い出すのは何故だろう。それは小説で失明をした新海氏は彼がモデルなのだ。とうとう新海氏は視力を失ってしまう。

わたしはやっぱり病気なんだ。この話をしたら主治医は言うかな。それでその男をどんな目に合わせたんだ。

何もしてないよ。小説中で失明させたのもなんの仕返しでもないよ。

ある日彼は満面の笑顔、カウンターに一枚の絵葉書を置いた。それは山の絵だった。子どもの絵本のような薄いパステルグリーンの山と薄いパステルブルーの空。彼は個展をするんだけど来ない?と言った。彼は画家だった。

わたしは彼の絵を観たくてたまらない。おしゃれをして出掛けた。濃紺のダッフルコートとローファー。持っているマフラーの中で1番品の良い柔らかい感じの水色のマフラー。手袋とバッグ。それから花屋で花束を買った。何の花にしようかなんて迷わない。ピンクのチューリップを10本。生成りの紙に包んでもらった。

小さな画廊。わたしは圧倒された。それは小学校の黒板くらいある大きな山の絵だった。そして日本画だった。

彼は笑顔だった。わたしも笑顔だった。

わたしは大学に復学しバイトを辞め、彼とはそれっきり会っていない。あの日チューリップの花束を手渡しわたしは笑顔でもう電話をしないでくださいと別れた。帰り道は力が抜けて身体がふらふらになった。

彼は素敵な人だった。いや素敵だったのは彼ではなく彼の絵かな。

そんな素敵だった?パトリックが言う。

だって塚地さんだよ。へ?誰? ドランクドラゴンの塚地さんに似てたんだよ。わたしは彼を理想化した、わたしは塚地に支配されかけていた‥‥。

‥‥塚地ならあなたどストライクで好みでしょうよ。

パトリックが微笑んだ。

大人になっても困ること〜感覚鈍磨

たいていの人間は晴天を好むものだがわたしは曇り空が好きで鈍い灰色の切れ間の無い分厚い雲を時間の経つのも忘れるほど長い時間見入っているときがある。

曇り空はわたしの脳への刺激の低い優しい色合いだからだ。西から東へ。南へ北へ。360度の曇り空に心から安らぐ。

びっくりするようなことだがある日あることを孫がわたしに尋ねた。

ねぇ、マミちゃん(わたしは孫にこう呼ばれている)て本当はオトコ?

幼児は正直だ。孫はどうやらわたしの性別が一瞬わからなくなったらしい。素朴に、真実に疑問を持った。オンナらしさ、オトコらしさ。そういうものに目覚め始めたそんな発達の証拠とも言える。

DIDの困った症状のひとつに感覚鈍麻がある。先立って日常に支障が出るのは痛覚の感覚鈍麻だ。簡単に言うと痛みを感じにくい。キッチンで下手をして包丁で指を切ってもしばらくはなんともない。寒冷や熱感、そういうものにも鈍感だ。真夏日駐車場に停めた自家用車に乗り込んでもなんともない。

実際のデータとして懇意にしていた内科医から指摘されて発覚したのは心拍数の上昇が通常より鈍いということだったし、DIDの診断となり最もストレスフルだった時期には血圧値も過激だった。過激というのは高くも低くもなるという意味である。看護師さんが目を白黒させる。

DIDは実際内科や循環器科や婦人科の病名をこれでもかとつけられるだろう。わたしは今は検査数値に右往左往することをしないがこれまでもが感覚鈍麻の症状だと言われればそうかもしれない。

わたしは自分がDIDなどという病気だと知らないでいた頃には女性から交際を申し込まれたことがある。

彼女は幾度も、何年間も、長い年月に渡り、時には涙ながらにわたしへの恋心を語った。わたしは彼女が嫌いでは無かったが恋愛感情は持てなかった。今は疎遠になっている。

10代の後半には女性からのレイプも1度だがあった。レイプと言って正しい。誰にも言えなかった。傷つき苦しんだ。

DIDがDIDたる所以は誤った記憶の入力方法にある。目の前で何が起ころうと、何を見、何を聴こうと無かったことにする。

隠蔽。詐称。すり替え。出来る限りあの手この手で記憶を塗り替える。

自分は人間ではない、鼠だとした日もある。その時はそう思うことで脳が楽になったのだ。鼠だから。わたしは鼠だから。

他のDIDさんはどうかわからない。

わたしは恋愛をしたことが無い。

その人がどれだけ立派であろうとどれだけ優しい表情であろうとわたしは心を許せない。女性とか男性とかではない。人間が無理だったのだろう。家畜をはじめとする動物研究にのめり込み出したきっかけはそんなところにもある。

治療が進んでゆくにつれわたしは感覚鈍麻を相対化出来るようになった。

そしてわたしはオンナだ。だからそこんとこは孫も安心している。

もう50歳になってしまったがここへ来てようやく夫に恋愛感情を抱く日々である。

今日もウクレレ。ザ・ブルーハーツリンダリンダ」を弾き語り。

生き抜くために感覚を壊した。失敗失敗失敗の連続。時間はもう2度と戻らないが今日わたしは普通に悲しみ、普通に「リンダリンダ」が心地良い。

沸き起こる感覚を保つ。感じるとはこういうこと、自分らしさとはこういうこと、わたしはもう鼠の記憶を消すことはしない。

パトリックも言っている。

鼠だって立派な生き物さ。

(2015.7.30)

DID患者とはどんな感じなのか

柴山雅俊は”表象の並列化”としてこれこそが解離の基本となる障害だとして書いているが、パトナムの本では”文脈(コンテクスト)のない情報を開示してくるやり方で患者は治療に抵抗する”とあり、この2冊は合わせて読むと非常に合点がいく。

”表象の並列化”という言葉にはなかなか馴染めない。”患者から開示される記憶情報の質感の奇妙なほどの均一化”と説明されるとふむふむなるほどとわからなくもない。つまりDID患者は写真資料もしくは挿絵すら全くない一冊の本の様なものだ。

そしてパトナムはさらにそこには”文脈も無い”と言っている。パトナムはあくまで治療者サイドに徹している。この患者、奇妙な抵抗をしやがるな、と感じたらひょっとしてDIDですぞ、と言いたいのだと思う。

パトナムは言っているのだ。人間の記憶には始まりが有り終わりがあるものだが、それがどんなきっかけで始まりどんな展開をしてどんな感じで収まったのかをDID患者は説明をしないぞと。

しかし当事者として言わせて貰えるのならばわたし自身それが自分の記憶だというのにあまりにもわからないことが多過ぎてじっさい当人も弱っているというのが真実なのだ。

文脈を持たない記憶情報を患者はどう感じているのか。何かが想起される。それは生き生きとした鮮明な一場面であり、瞬く間に脳内を厳戒態勢にする。恐怖、焦燥、逃げ出したいという気持ち。

しかしそれほど力ある記憶なのに文脈が無い。敵を分析することも叶わないのだ。乱暴にちぎり取られた大いなる断片としての一場面だ。

地中の奥深くから生きた動物が現れるようなものなのだ。冬眠から覚めた熊。玉手箱を開けた浦島太郎と言っても良い。DIDは記憶を真空状態、鮮度そのままに保ち続ける能力を持つ。

深呼吸して心を落ち着つかせるなら彼または彼女は死んだか若しくは行方知れずであること、記憶の中のわたしと言えば独身であるということ、その時から既に数十年が経過していて、それは遺跡の発掘に近しいことなどがじわじわとわかってくる。

もちろん深呼吸すれば全てが解決するわけでは無い。何年も治療を継続して、治療者もなんだまたその話か、と飽きるほどに我々は思い返しているはずだ。ある時全貌が現れるのである。わたしは主治医とふたり丘に立ちふむふむと納得するわけである。

柴山先生は”並列化してあってね”と親切に書いてくれている。会ったことはないがこの先生がたくさんのDID患者を抱えている日常が伝わってくる。もう亡くなった人だけれど、そして会ったことはないのだけれど”貴女の脳の蓋が開いてしまったんですよ、今日は一旦閉じますけど今度から一緒に脳の蓋を開けましょう”とDID患者に寄り添った在日の医師を知っている。

時系列を持たない情報と言えばそれはひょっとしたら詩集のような感じの一冊かもしれない。

DID患者は詩集です、と言ったら綺麗過ぎるだろうか。患者の口から溢れる訳がわからない言葉のサラダに苛々されられ、ここは入院設備が無いからと患者をじっさい切り捨ててしまう治療者さんたちには酷な話だろうか。

(この文章は2016.3.30のものです)