解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

DID患者とはどんな感じなのか

柴山雅俊は”表象の並列化”としてこれこそが解離の基本となる障害だとして書いているが、パトナムの本では”文脈(コンテクスト)のない情報を開示してくるやり方で患者は治療に抵抗する”とあり、この2冊は合わせて読むと非常に合点がいく。

”表象の並列化”という言葉にはなかなか馴染めない。”患者から開示される記憶情報の質感の奇妙なほどの均一化”と説明されるとふむふむなるほどとわからなくもない。つまりDID患者は写真資料もしくは挿絵すら全くない一冊の本の様なものだ。

そしてパトナムはさらにそこには”文脈も無い”と言っている。パトナムはあくまで治療者サイドに徹している。この患者、奇妙な抵抗をしやがるな、と感じたらひょっとしてDIDですぞ、と言いたいのだと思う。

パトナムは言っているのだ。人間の記憶には始まりが有り終わりがあるものだが、それがどんなきっかけで始まりどんな展開をしてどんな感じで収まったのかをDID患者は説明をしないぞと。

しかし当事者として言わせて貰えるのならばわたし自身それが自分の記憶だというのにあまりにもわからないことが多過ぎてじっさい当人も弱っているというのが真実なのだ。

文脈を持たない記憶情報を患者はどう感じているのか。何かが想起される。それは生き生きとした鮮明な一場面であり、瞬く間に脳内を厳戒態勢にする。恐怖、焦燥、逃げ出したいという気持ち。

しかしそれほど力ある記憶なのに文脈が無い。敵を分析することも叶わないのだ。乱暴にちぎり取られた大いなる断片としての一場面だ。

地中の奥深くから生きた動物が現れるようなものなのだ。冬眠から覚めた熊。玉手箱を開けた浦島太郎と言っても良い。DIDは記憶を真空状態、鮮度そのままに保ち続ける能力を持つ。

深呼吸して心を落ち着つかせるなら彼または彼女は死んだか若しくは行方知れずであること、記憶の中のわたしと言えば独身であるということ、その時から既に数十年が経過していて、それは遺跡の発掘に近しいことなどがじわじわとわかってくる。

もちろん深呼吸すれば全てが解決するわけでは無い。何年も治療を継続して、治療者もなんだまたその話か、と飽きるほどに我々は思い返しているはずだ。ある時全貌が現れるのである。わたしは主治医とふたり丘に立ちふむふむと納得するわけである。

柴山先生は”並列化してあってね”と親切に書いてくれている。会ったことはないがこの先生がたくさんのDID患者を抱えている日常が伝わってくる。もう亡くなった人だけれど、そして会ったことはないのだけれど”貴女の脳の蓋が開いてしまったんですよ、今日は一旦閉じますけど今度から一緒に脳の蓋を開けましょう”とDID患者に寄り添った在日の医師を知っている。

時系列を持たない情報と言えばそれはひょっとしたら詩集のような感じの一冊かもしれない。

DID患者は詩集です、と言ったら綺麗過ぎるだろうか。患者の口から溢れる訳がわからない言葉のサラダに苛々されられ、ここは入院設備が無いからと患者をじっさい切り捨ててしまう治療者さんたちには酷な話だろうか。

(この文章は2016.3.30のものです)