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解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

芸術療法〜⑸作為

人は何故絵を描いたり彫刻を拵えたりするのだろう。わたしは日常絵を描きたいという衝動を感じたことが皆無で絵画を鑑賞するべく出掛けていくこともなるべく避けて暮らしていた。

優れた絵画や彫刻作品からは作り手のエナジーが発せられている、という評価をする人がいる。そもそも芸術療法という概念もそうした解釈で成り立つセラピーだ。

DID患者の発する表象のひとつが世でいうところの芸術家然としている場合を除き、DID患者の表現は100%作為である。DID患者のわたしはたとえ思いつきの散文を書いたときにもまるで小説を書いているかのような薄気味悪さを拭いきれなかったし、無意識に自分の表現に作為の証拠を探す衝動が止まなかった。

作為を英語で言うと日本語的には不満が残る。作為とはランダムではないわざとらしさ。作為は英語ではアクトであるがアクティングアウトとは医療用語では精神病患者の言葉未満の心身症状である。違いますかね。

芸術療法を論じるこのわたしの言葉たちもまたわたしという脳内の作為に汚されている。

この数日ドイツプラウエンのケミカルレースをフリーハンドで描く作業に猛烈にやりがいを感じている。プラウエン地方のケミカルレースは1900年のパリ万博で世に知らしめたアール・ヌーヴォー(ドイツではユーゲント・シュティール)のその世界の片隅にいた。

この紋の起源はおそらくは何か植物の花弁で、モチーフを繋ぐ一本一本の細い線は蔓か、もしくは蜘蛛の糸に見えなくもない。

ケミカルレースは100%の作為であり、みも美しい工芸作品であり、わたしの脳内を魅了して止まない。フリーハンドで描く工芸の模写。

DID患者で作為で、と自分自身を貶めていた現実をありのまま認めたい。今後もそれで生きていくしそれしか出来なくてなんの不足か。たかが文章だ。

自分を許すことのなんと難しい。己を容赦することを単一に無様とした感性のきつく詰まった世界が解けていく。プラウエンの切手の図案のひとすじひとすじ。花弁を蜘蛛の糸で繋げている。