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解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

芸術療法〜⑷題目

お気に入りの何枚もの古切手は全て友人から貰ったものだが、眺めていて心地よいそれら小さな切手の図案は絵画のようだ。1枚1枚切手の模写する。そんなやり方の美術鑑賞である。

わたしの親たちは絵画鑑賞が好きで裕福になり先ず購入したものは世界美術大全という分厚い図録であった。そしてわたしはその図録をどれだけ眺めてもああこれはいいなと思えるものには1枚も出会えない。

親をがっかりさせてはならぬという判断がわたしの美術鑑賞へのアプローチを歪んだものにした。多大な賞賛を受けた作品は素晴らしい、いつの日かこれらを鑑賞する資格と能力が備わるはずだとわたしは信じた。わたしはあきらめなかった。

ヒトはひとたびその心に嘘を抱え込むならじわじわとすすむ脳の劣化を免れない。あるときわたしは美術館の展覧会で絵画を眺めていた。わたしは目眩と吐き気に見舞われた。誰か教えて欲しい、どこを見ればいい、何を考えれば感動はやってくる。わたしは誰構わず尋ねたい衝動に駆られていた。

題目は英語ではsubjectだがこの言葉には「落ちてくるもの」という意味合いがある。

絵画の価値や審美眼の有る無しを論じるつもりは無く、ただ言いたいことはわたしは長いあいだ待っていた。わたしに落ちてくるなにかを待っていたということである。

この数日ドイツのケミカルレースのシリーズを模写している。切手はチェコの国境近くのプラウエンの伝統工芸で1973年のものであるが、もちろんケミカルレースという分類やそれがドイツのものであるということも当初は全く知らずになんかいいなと眺めていた。

ケミカルレースの模写の直前にサンマリノ共和国の切手の麦の穂を描いていた。豊かに実った歩留まりの良いパン小麦。小麦の一粒一粒を楽しく描いた。まるで畑で収穫された小麦がわたしにパラパラと降り注ぐようだった。ようやく落ちてきた。待ち望んでいた。それはおそらくは初めてわたしに落ちてきた絵画なるものの題目だった。