芸術療法〜⑶嘘
いくつかの心を動かされる絵画や彫刻作品をじっくり鑑賞するとそれが痕跡や傷跡に似たものを発しているように思えることがある。それはただ単にわたしはそうした分野の作品に心を動かされる傾向を持っているという事実である。
白い紙に万年筆でジーっと線を描く。未だに模写だけを描くという習性を持つわたしは、自分の引いたその線が当たりか否かを瞬時に判断し、違うな、これは違うとなれば万年筆はホワイトインクで消すしかないので修正はじっさい手間である。
消しゴムで消えやすい柔らかい鉛筆の描く線はたいてい太くて正誤の見極めがし辛い。それでどうにか消しゴムで消せる硬い芯のシャープペンで細い線を描き、その上から万年筆でペン入れをする。複雑な図案の線画を描き進む。完成。切手等の模写は拡大しながら描き進む。完成してもこれはなんかどこか違うなという気味悪さが付き纏う。
1日数枚の古い使用済み切手を模写している。切手は楽しい。国や地域によってデザインに作風がある。切手は風が吹いたらパラリと飛んでゆくよな紙片である。しかしおそらくはこうして切手として印刷され販売されるまでには幾人もの人手が加わっているのだと考えるとそれはとても興味深い。
昨日わたしはシャープペンで完成した下書きを一旦全て消しゴムで消して何もない白い紙にした。そろりそろり慎重にシャープペンの下書き線をなぞるのがどうにも苛々したのだ。脳内の下書き記憶の痕跡を辿りつつ白い紙に万年筆でさっさと描き進むのは爽快である。
こんなに毎日絵を描くのは生まれて初めてのことかもしれない。日々模写の反復を続けていると脳内の緊張や集中が薄まりゆく心地よさがあった。天才でもない限り一発で嘘のない線を引き当てることなど出来ないという言い訳も湧いてきた。
昨日は魚を描いた。切手はポーランドのもので魚は鯉であった。魚を描くのは2匹目で、数日前に昭和の日本の切手の赤い金魚を描いた。
ポーランドの切手の鯉はその顔に歌舞伎役者風ペイント模様があり、わたしはひとすじひとすじにかつてない緊張を覚えた。この紋様のこのラインの角度の違いはこの魚の顔となるからだ。
鯉を描きながら数日前に描いた金魚を見る。もしもこの2匹を同じ水槽に入れたとして金魚はこの鯉を見るだろうか。初対面の鯉の印象はどんなものか。そんな馬鹿なことを考えてひとり苦笑する。
仕上がった鯉は屈強な印象の野性味に満ちた鯉。ポーランドの鯉など見たことはない。統一感に乱れはないが逆にまとまりが過ぎてそこら辺は嘘っぽく見えた。もう色も塗り終えてやり直しは出来ない。
もっとやり直したかったのは金魚の方だ。昭和の日本の金魚はポーランドの鯉と同じくらい強い魚に見えた。これは違う。昭和の日本の金魚の儚さや可愛さがまるで無いよなあ。
いつしかわたしは一本の線の正誤からは遠くかけ離れた世界にいた。わたしは金魚であり、すっかり金魚の気持ちになっていたのだ。ねえ描き直してよという昭和の金魚の声を聞いたのだ。