解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

転移神経症とはどんなものなのか

DIDの症状に転移神経症がある。陽性転移は恋愛のようであり、陰性転移では虚無や絶望を共有してどちらも患者と精神科医双方の感情を掻き回し、コミニュケーションを滞らせ、関係を複雑にする。

私なりの考えだが、患者に転移を起こさせないような精神科医は力量不足である。転移は面倒だ。なければないで越したことはないとする精神科医もいる。

私はこれまでほとんどすべての診療科で主治医と出会った途端に強烈な転移を起こして来た。おそらくわたしの心がポジティブとネガティヴの鋳型を幾つか備えており、それは関心を持って近づいてくれる誰かを直ぐさま捉えて苦しめる蟻地獄のようなシステムとなっているようだ。

通院が始まり半年がたったころ主治医が他府県へ転勤となった。DIDを診てくれる精神科医はそんなに当時数多くなかった。悩んだ末に150kmほど離れた主治医の転勤先の精神病院へ月に1度通う日々が始まった。

長く続いたわたしの転移はその時に始まった。電車が好きなわたしは鈍行に揺られて遠くの町の病院へと移動するのを楽しみとした。朗らかに病院入りするものの、診察終わりの主治医とのお別れが出来ない。

帰りたくない。まだここに居たいのだ。何か強力な磁石で引っ張られるような感じがする。踏ん張って病院を後にする。建物を離れる。

心細さで居ても立っても居られない。わたしは辺りを見回す。誰でもいい。今すぐ誰かこの手を取って微笑んで抱きしめてはくれぬものか。根拠のない悲哀と絶望で帰りの電車の中ではわたしはまるで広漠とした砂漠を長く彷徨い枯渇した旅人のようだった。

当時のわたしはひと月にだいたい大学ノート一冊分の日記のような文章を主治医に提出するようになっていた。日記以外にも時には詩を書いたり、短編小説を書いたりした。たいていは女々しい泣きごとをつらつらと綴った。

全く自由に伸び伸びと書いた。わたしはそのようにしてわたしと主治医との関係性を構築した。主治医はわたしの母になり、兄になる。恋人になり、親友となる。そのノートには何を書いても許された。尋ねてみたいことがありますと何十もの質問を書いた日もあった。治療者はそれに応える必要はない。治療は進展した。書くことでわたしは少しずつ脳内をオープンにしていった。

転移神経症をこれがそうなのかとわたしがすっかり理解するまでに実際には時間が掛かった。わたしにそれが可能だったのはおそらく脳内人格のひとりーそれは精神科医の人格であるがーの勤勉な調査と分析によるものである。

彼の名はジョージ・ピーターズ。‥‥顔はジャン・レノに似ている。(言語は日本語です)

ジョージ・ピーターズは診察後の強烈な心細さから作り出された新しい人格だった。ある日の診察で、帰り道の記憶がすっかり失われていた。わたしはその日処方された薬を受け取らずに帰宅した。事態は深刻だった。その時期のわたしが自殺をし易かったのだ。

そのころにはわたしはおそらく主治医を信頼し始めていたと思う。主治医は患者の放つ強い感情を出来る範囲で受け止める。DIDは拒絶に敏感である。主治医はDID患者の持ついわば蟻地獄のような底無しの救済欲求を怖れないことだ。感情の渦巻くその場所で逃げないで踏みとどまることだ。

信頼。絆。安心。それまでのわたしの脳内にはそれらのタグは無い。

転移神経症の構造を知ることで、DID患者はそれまで敵になったり味方になったりして混乱を引き起こすばかりであった対人関係の謎が解けるようにもなる。そうした感情の嵐に耐えているのは自分だけではないということを思い巡らすならばよもや感情の高波ごときで死ぬるものかという闘争心も湧いてくる。何よりそうした時間の累積が新しい関係性を形造る土台となる。

ねぇわたし先生が大好き。

そんな囁きと共に、その日わたしの人生には大いなるTAKE2が訪れていたのである。 (これは2015.5.20の記事に加筆したものです)