解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

芸術療法〜(18)旋律

今週から16世紀イタリアのマドリガーレ、カッチーニの”アマリッリ”を歌っている。まずは歌詞の読み方から。イタリア語の母音は日本とほぼ同じで5つ。マドリガーレって知ってる?友人であり今はわたしの声楽教師である彼女がある日わたしに言った。

マドリガーレとは当時ヨーロッパで起きたムーブメント。ラテン語一辺倒の教会音楽ではなく自国語で、自分の歌を歌いあげようというもの。まさか自分が伝統的なマドリガーレをこうして練習する日がくるとは思ってもみなかった。

”アマリッリ”は高音からはじまる。歌詞の内容はどうやらベタなラブソングである。わたしの練習法は単純極わりないもので、録音した彼女の歌声をそっくりそのまま真似るというものだ。

ヒトはひとりひとり骨格も歯並びも骨の大きさも違うから。彼女曰くわたしがとれだけそっくりに真似ようとしたところでそれは出来ない相談だと。

前回のオペラ曲のアリアでの苦闘。やはり出来なかった。わたしのひねり出す旋律は甘ったるくて押しつけがましいのだ。ここは芳醇に威風堂々と!彼女のオーダーは厳しかった。わたしという人間にはリッチな要素が皆無であることが判明した。

無いモノは出せんな。わたしは苦笑い。‥‥在る振りだよ、持ってる振りだよ、それが歌うたいさ。彼女がポツリと言う。

そうだわたしは歌うたいになりたい。歌うことで変わって行きたい。そんな願いが幾度となく芽生えるのだ。リッチなものなど何ひとつない。何もかもが崩れ落ちてゆく為すすべなく手遅れで枯れてゆく速度にもけして負けない'どうしても'の心の景色をわたしはそんな風にして見るのである。

アマリッリアマリッリ。歌ってみる。んー演歌になっちゃう。わたしは苦笑い。消さないよ、残そうよ、マミちゃんの演歌。友人が笑った。