解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

芸術療法〜(13)明暗

精神科とは精神病院のことだが精神病院という言葉の響きはとても重い。単にそれは言葉の持つ印象であるがこの4文字に重厚な悲劇的イメージをわたしは抱く。

このところ芸術療法などと格好良い呼び名をつけて文章を垂れ流しているが要するにわたしという個人の内面の変化を記しているだけであり、わたしは日々内面で壊してはまた作る、を繰り返している。

何かに影が出来るということは実はそこに光が注いでいる証拠でもある。写実的な絵を描くとき見えている場面の目の前の物体の背後にあるはずの影を見出し、その輪郭を描くなら途端に絵が現実味を帯びる。

影を描ける人には光が見えていると言える。そして赤や青といった色も光の輝きの違いから生じているらしい。色彩過敏の脳を大袈裟に言うとじっさいは光過敏と言えるかもしれない。

建築に詳しい友人がわたしにはいるが彼女はもしも自由に家を建てられるとしたらどんな家に住みたいかという話が好きだ。正直わたしは建築にはまるで興味が無くてただ彼女をがっかりさせたくなかったからいつも適当に思いつく適当なかたちの家の話をした。

最近はっきりと自分の好みがわかってきた。先ず何より精神病院みたいな建物は嫌だ。細かくいうと等間隔に並んだ小さな四角い窓に鉄格子が付いている。あれさえ無ければどんな家でも良い。

窓はとても大切である。電気が普及する前の時代には窓は蝋燭や暖炉の炎以外の天然の光源であった。

絵を描くようになり、相変わらずはっきりとした色彩は苦手だが影の輪郭を描くことが愉しいとわかった。そしてその影を真っ黒に塗り潰したい。

今日も部屋の中や窓の外など、そうか光がこっちから差しているから影がこんな風に出来ているんだな、という感じに宇宙の果て、太陽光の為せる地上の闇の輪郭を見つめている。影は光線がそこにあることの証拠である。