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解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

幾つかの治療法〜⑦芸術療法

DIDの回復について、当事者と当事者の家族、また治療者とではそれぞれが異なるイメージを持っている。

当事者は今まで通り何人かの自分のままで生きていきたいという思考をいつまでも捨てきれない。家族は治療が進めば愛する人の奇異な部分が少しは人並みに近付くという期待を持っている。

治療者の考えは当事者であるわたしには正直わからない。ある時は今日生きていることを褒めてくれるし、ある時は変人で良いと慰めてくれる。良質な治療の主導権は当事者の今その時だという双方の了解は、傍目には医師がその権威を捨てて患者に媚びているかのように映ったとしてもけして揺らがないものだ。

回復とは何か。

回復とは癒すことであると、それがまるで壊れたアスファルトの道路の復旧だとする第三者がわたしは大変苦手だ。

DIDの病理は単純な愛情の足し引きではない。目の前の道路にアスファルトが敷かれたのはほんの数十年前のことであり、その道路の'ほんとうのはじまり'を知る人はじつはどこにも存在しない。

DIDは人格の故障であるとして、今すぐ熱いアスファルトを被せることが復旧だと考えている単純慈愛派(DID患者には生育期に欠けていた親の愛を埋め合わせよと主張する人々)やマイノリティ救済派(DIDの回復を個々のジェンダーの獲得と混ぜこぜにして弱者救済だと主張する人々)の鉄壁の優しさはじっさい当事者には虐待の再現に真っしぐら向かうパラドックスとなる。DIDは違反と歪みに慣れているからだ。それが見当違いであればあるほど受け入れることは容易い。

DID患者とは。日々わたしは誰?をくり返すしかない当事者にはアスファルトフィニィッシャーではなく掘削機をこそが必要なのだ。

芸術という響きは重々しいがアートでは軽々しい。ひとりひとりの人間は個々の感性を持つ。感性は発達するし衰退もする。

DID患者はれっきとしたひとりの人間である。わたしはほんとうのわたしを知らねばならず、今ここに居るわたしが誰だとしてもここからはじまるしかない。

思考の掘削とは平たく言えば表現である。掘削機は絵筆になったり彫刻刀になったり、こうして言葉を使ってイメージを組み立てたりする作業であろう。

DID患者にもちゃんと人としての思いがある。人を殺したかもしれない荒んだ心がその荒んだ視線の先に美しいものを求めることがあることをわたしは知っている。わたしはそれを知っているので治療をあきらめないのだと思う。

芸術療法としてランダムに色彩と造形、表象における醜美などを今後論じてゆきたい。