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解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

幾つかの治療法〜③認知療法

認知療法の手法は様々であるが、市販されているこれが認知療法であるとされるテキスト類は主に専用の用紙に単語や文章を書き出さねばならず重篤な状態で寝込んでいる患者のアタマや体にはまず難しい治療である。

その上自ら書き出した行動記録等を提出しそれをセラピストと共に読み返して分析する作業はふんだんに学校時代を思い起こさせるのでわたしは当初苛々してよく「馬っ鹿じゃないの」と本を放り投げていた。

そもそもわたしの主治医は認知療法をやるからね、などと言ったり、じっさいにやったりすることは一度もなく、認知療法はわたしが勝手にはじめたことだった。主治医がとくに推奨してもいない治療法を勝手に進める辺りに今さらながらDIDの臨床の難しさを思わずには居られない。

わたしの認知療法のはじまりは主治医の発した「アサーショントレーニング」という聞き慣れない言葉であった。それに対しわたしは「そういう新しい横文字の治療には飛びつかないんだよ」などと憎まれ口を叩いた。

アサーショントレーニングとはコミニュケーションのトレーニングのことである。DIDはコミニュケーション障害を持っている。DID患者のコミニュケーションは攻撃的か受動的か、はたまた欺瞞的か作為的であるが、コミニュケーショントレーニングを難しくする要素のひとつはDID患者が他者からの評価に過剰反応することだ。

つまり褒められてもけなされてもなんとも落ち着かない。ある程度治療が進んで主治医を信頼し始めた患者は主治医の一言一言を深刻に受け止め、舞い上がりと落ち込みとで脳内を疲弊させる。

卵が先か的理論となるが良質なDID治療にアサーショントレーニングは欠かせない。治療が一進一退となるのはこの辺りである。

わたしが精神科に掛かる直前の内科の2人目の主治医はわたしへのアサーショントレーニングの必要に駆られてか診察時にはメモを持参するようにと言った。他者との対話に慣れていないわたしは実務的な診察用のメモが当初作れず、なにやら謎めいたキーワードを書き殴ったものを主治医に提出しては診察を煙に巻くことが多かった。

その内科の主治医はアサーショントレーニングのことを「内観」と呼んでいたが、その主治医にはいわゆるオマエには感謝が足りんというような高飛車なところが一切無かった。ある日余白だらけのわたしのメモを手に取った主治医はふと思い出したかのように親しい友人との死別の哀しみを語ったことがあった。

主治医はスポーツ万能の体育会系だったがそんな彼の無防備なこころに唐突に触れたわたしは全くドキドキしてしまい「先生無理して思い出さなくていいんですよ」と言った。「人間てのはとかくしてもらったことに対する認識が足りねえもんだな」などと苦笑いをするこの主治医は全く愛すべき人だった。

認知療法がDIDで有効な理由のひとつはそれがセルフヘルプであるということだ。DID患者は認知療法を行うことで自分に対して自己開示をする。

高度な認知療法では心的イメージを180度置き換えたり、マイナス思考をオートマチックに中断するスキルを身につけたり出来るが、じっさいの認知療法は地味で時間の掛かる退屈な作業である。

鬱状態躁状態のわたしには自分が全く見えていない。脳内ネイティヴとしての素のわたしは自分の行動には100%の正当性があるとしていて、自分を責めるということがない。嫌な奴なんである。

市販されている幾つかの認知療法の本ではそんな人間はこの世で生きる価値はないとして対象からは除外されているがわたしはそんな自分専用の一枚の認知療法シートを有効に使っていた。

それは「それってあたしのせい?」円グラフというものである。これはわたしのオリジナルではないが今では出典は失われていて書き出せない。ご存知の方がおられれば教えていただきたい。

白い紙にコンパスで正しい円を描く。直径は5〜10㎝くらい。中心から時計の針のように線を引く。まず12時に一本引いておく。

例えば”わたしは精神病である”という円グラフを描いてみよう。

果たしてわたしが精神病になったのは100%わたしの責任だろうか?そんな風に考えてみる。とりあえず100%ってことはないなどとふと思う。では誰か他に責任をなすりつける人は居ないだろうかなどとそんな風に考えてみる。あいつか、それともあいつか。こつこつとそんな最低にして頭のスッキリする作業が進む。

わたしは10時のところに一本の線を引き90%の余白に地球温暖化と書いた。残りの10%には遺伝と小さく書いた。

まあ要するにあたしのせいじゃないもーん、みたいなそんな感じである。

なんと素晴らしいアサーショントレーニングのはじまりの一歩。立派な人間になる道は険しく遠い道のりである。