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解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

そして精神病院へ通い始めたころのこと

脳への刺激を避ける。車のクラクションと町の喧騒。甲高い話し声と絶え間無く続くテレビコマーシャル。そういうもの全てが我慢ならない。

主人とわたしは3人の娘を連れて転居した。知人のつてで山に近い場所の一戸建ての借家を借りて移り住んだ。

当時わたしたちは、数年前に離婚して一人暮らしを始めたわたしの母を引き取り同居していたが母との暮らしは今考えれば非常にストレスフルだった。母は理解されにくい芸術肌の性格で、お味噌汁の具が気に入らないなどとトゲトゲしい言葉で人をなじったりしたものだ。わたしは長年のことでそんなことには慣れていた。母もわたしを御しやすく扱いやすい下僕のように捉えていた。

きっかけは今も定かでは無い。ひとたびバランスを失ったわたしの精神は次々と問題行動を起こしその矛先は最終的に母へと向かう。

当時のことはほんとうに思い出しにくい。

このままでは貴女はお母さんを殺してしまうでしょう。

そんな言葉で諭された。

引越し。母との別居。わたしは母親を捨てた恩知らずの娘、その上精神病を発病した汚れた者して親族から綺麗に排斥された。

精神科受診。わたしは打ちのめされる。当時のわたしに社会性と呼べるこじんまりした人間関係があったとして、その隣人たちは揃って狭量であった。わたしたちのコミニュティはあやしげなプライドで立っていた。社会的弱者と呼ばれることを潔しとしない、けして長持ちのしない薄っぺらい自尊心。

精神病院は二週間にいちど、主人は毎回必ず有給を取って車で運んでくれた。

発作。

攻撃性と感情の爆発。

旦那さんきついやろ?奥さん、おうちでみれます?

主人は主治医から入院を促されるも断るのだった。わたしが何より入院を嫌っていることを知っていた。

多重人格という診断をわたしはその時まだ受け入れられない。診察室でもわたしは殆ど話さない。はっきりとした期間を記録していない。わたしが主治医に日記のようなものを提出するようになるまでにかなりの時間が必要だった。

淡い色。おぼろけな、弱々しい色合いのものにわたしは惹かれていく。

病院の帰りは決まって琵琶湖へ寄る。淡水の静けさ。単調な里山の景色。

変化があったのは2年後、主治医宛の手紙のような日記のページ数が徐々に増えてゆく。大学ノート一冊にびっしりと書き連ねた文章は診察前に目を通すというレベルを超えてわたしは乱暴に主治医の机にノートを放り投げた。

圧縮された感情が吹き出しはじめていた。

(2015.5.12)