「発作」について〜⑤
https://open.spotify.com/track/7olInnJHar21gYxiAvz99p?si=boi2aho1R0W1SYepAO5KEg
コクリコ坂
ここ寂しい。あっち側に行きたいのこっから出られん。やっぱ無理なんかな。
「発作」について〜④
https://open.spotify.com/track/6brWjGxo6qZprpwPyYjKCe?si=43h33E68SgGoEIlTWdRVfQ
スピッツ'へちまの花'
リキッド状のリスパダールを飲んで泥の様に眠る。もう誰も困らせたくはない。誰のことも振り回したくはない。
「発作」について〜③
https://open.spotify.com/track/7I2UqW3SoA70eSp1fYTyOX?si=ZWDDxlI4Qkume2RC_yrloA
ディック・リー'all my nightmares'
愛されたい。世話されたい。注目されたい。
「(中略)幼少期の虐待や外傷のため養育環境が劣悪で、思春期以降、度重なる自殺企図や自傷行為が見られ、人格交代や健忘、離人、幻覚、情動不安定などを呈する'慢性疾患'である。通常の支持的精神療法では対処が難しく、それなりの治療が必要になる」
(2017.柴山雅俊)
「発作」について〜②
https://open.spotify.com/track/23oGrL9f69Jx1F0SK5d7mv?si=OaoGPGFKSxK8eKtchJCPTg
転院という一大イベント。特に当てはないが自宅から通えること、専門医が居ることなど制約がないわけではない。だけど前向きに考えている。
「解離当事者の主観的体験は、患者からも治療者からも見事に切り離され、受容され理解されるということもなく寂しく漂うばかりである」
( 金剛出版 2017年 柴山雅俊 「解離の舞台」)
「発作」について
https://open.spotify.com/track/1AsLOHNlBlBVPrROZdfxu1?si=pZUShYVPTqOxdS02pTdgJg
official髭ダンディズム'rolling'
真夜中に交代人格たちによる発作。記憶は途切れ途切れ。闘いは続くが諦めはしない。だって私は独りぼっちではない。けして孤軍奮闘ではないんである。
別れ
https://open.spotify.com/track/2qdLHldd6a7HBItxxfBcwl?si=C_kdRxZ-RYCOuvp2kSv6-Q
大橋トリオ'忘れない'
誰かと別れることは寂しいはずなのにDIDである私はこれまで寂しければ寂しいほどその感情を塗り消して進んできた。だからこのたびのこの別れの余りの堪え難い寂しさに直面して根拠もなく的外れな強い罪悪感に苛まれている私に、君のせいではないからと納得をさせてくれる心の声に感謝しています。よおく耳を澄ませばそれは夫や友人の声であり長く慣れ親しんだ良心の源からやってくる交代人格たちの声のようにも思われます。今も自分がDIDである事を悲しく恨むことがあるけれど、もしも私がDIDでなければ彼には出会えなかった。この先のことを思えばほんの短い期間の出来事でした。有難う。これまで本当にお世話になりました。私は今そんな気持ちです。
脳の声
これは脳の声だとわかっている。愛すべき脳の人々。脳の声が異常な事態だとは今でも思われない。だからそれこそが異常事態なんだよ、と脳の声。
お知らせ
これまでfridayusaoのブログを読んでくださってありがとうございました。このたびブログを引っ越しました。相変わらずの偏屈で拙い文章ですがお暇な時にでも覗いてみてください!どうか皆さんお元気で!
芸術療法〜(32)モズク採り
モズク採りが単純に脳に良いということではない。
わたしは沖縄でモズク採りをしたその日、浅い海でゆらゆらと繁茂するモズクを手でちぎって、そのままその場で食べたのである。例えば栽培農家がりんごやイチゴを観光客に食べさせるレジャーがある。これまでわたしは積極的にその種の場所へと出向くことはなかった。
糸満市の道の駅には大きめの鮮魚市場があり、食べてみたい魚を刺身で食べられるシステムがある。貝殻に盛られた一人前数百円の新鮮な刺身を幾つかトレーに選んで会計してもらう。この魚の丸の姿はどれ?と店のお兄さんに尋ねると隣接する場所の赤や青の魚を指差して教えてくれる。
わたしはその日高瀬貝という貝を食べた。高瀬貝はお土産屋さんで売っている三角のカタチの美しい貝である。味はなんとも言えない個性的なもので旨味はある。問題は食感で、部位により異なるが最初にひとくち食べたところはまるで蒸したササミであった。後半はアワビに似ていてなかなか宜しい感じである。
イートインスペースは共用でわたしの隣の現地の婦人が高瀬貝食べてるの?シャコガイ食べたらいいさと笑った。ここは昔は食べる場所なんてなかった、観光客のために作ったんだね、買った魚をその場で食べるなんてほんとにハシタナイさ。婦人は独り語りを続けている。婦人は既に食べ終わっていて、いったい何をチョイスしたのか確認出来ず無念。
モズクを海から取ってすぐ食べるというのは要するにモズクを水道水で洗わないということ以上の意味がある。つまり調理をしない、モズクの踊り喰いである。モズク採りの面々が皆モズクの踊り喰いをしているわけではない。わたしはモズク採りは初めて。このモズクほんとに食べられるのか。そんな確認をせずには居られなかったのだ。海水ってショッパイなあ。なんでかなあ。モズク採りはなかなかエキサイティングである。