解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

芸術療法〜(6)余白

プラウエンのケミカルレースはじっさいは刺繍作品で花も蔓も機械が描いている。ランダムに見えてもそこには法則性がある。酷く複雑な模様を謎解きしながら描いている。

ぱっと見は味気の無い冷めたような工業製品が安心なのはそれが決められた線で描かれた決められた顔の花たちだからだ。

花たちはみな一様に俯き加減。しかし立ち上がる花びらはそんなに柔ではなくポーズを決めて魅せる。次の段、花たちは一列に行儀よく斜め上を見ては首をかしげる。左右非対称の薄っぺらい花弁が風を受けて歪な弧を描く。ここは向かい風か?まるでラインダンス。脳内に刺繍針の軽快な機械音が響き渡る。

ペンと紙とわたし。線を繋げる、ただそれだけ。花たちはわたしに向かって微笑んだり憂いたり。花を描くことが愉しい。

ペンを置き、わたしは色鉛筆で色を塗った。花を塗り蔓を塗り手を止めた。少し考えて別の色を塗る。溶かして消えてしまう糸と糸のあいだのそこは余白だったのだけれど。

芸術療法〜⑸作為

人は何故絵を描いたり彫刻を拵えたりするのだろう。わたしは日常絵を描きたいという衝動を感じたことが皆無で絵画を鑑賞するべく出掛けていくこともなるべく避けて暮らしていた。

優れた絵画や彫刻作品からは作り手のエナジーが発せられている、という評価をする人がいる。そもそも芸術療法という概念もそうした解釈で成り立つセラピーだ。

DID患者の発する表象のひとつが世でいうところの芸術家然としている場合を除き、DID患者の表現は100%作為である。DID患者のわたしはたとえ思いつきの散文を書いたときにもまるで小説を書いているかのような薄気味悪さを拭いきれなかったし、無意識に自分の表現に作為の証拠を探す衝動が止まなかった。

作為を英語で言うと日本語的には不満が残る。作為とはランダムではないわざとらしさ。作為は英語ではアクトであるがアクティングアウトとは医療用語では精神病患者の言葉未満の心身症状である。違いますかね。

芸術療法を論じるこのわたしの言葉たちもまたわたしという脳内の作為に汚されている。

この数日ドイツプラウエンのケミカルレースをフリーハンドで描く作業に猛烈にやりがいを感じている。プラウエン地方のケミカルレースは1900年のパリ万博で世に知らしめたアール・ヌーヴォー(ドイツではユーゲント・シュティール)のその世界の片隅にいた。

この紋の起源はおそらくは何か植物の花弁で、モチーフを繋ぐ一本一本の細い線は蔓か、もしくは蜘蛛の糸に見えなくもない。

ケミカルレースは100%の作為であり、みも美しい工芸作品であり、わたしの脳内を魅了して止まない。フリーハンドで描く工芸の模写。

DID患者で作為で、と自分自身を貶めていた現実をありのまま認めたい。今後もそれで生きていくしそれしか出来なくてなんの不足か。たかが文章だ。

自分を許すことのなんと難しい。己を容赦することを単一に無様とした感性のきつく詰まった世界が解けていく。プラウエンの切手の図案のひとすじひとすじ。花弁を蜘蛛の糸で繋げている。

芸術療法〜⑷題目

お気に入りの何枚もの古切手は全て友人から貰ったものだが、眺めていて心地よいそれら小さな切手の図案は絵画のようだ。1枚1枚切手の模写する。そんなやり方の美術鑑賞である。

わたしの親たちは絵画鑑賞が好きで裕福になり先ず購入したものは世界美術大全という分厚い図録であった。そしてわたしはその図録をどれだけ眺めてもああこれはいいなと思えるものには1枚も出会えない。

親をがっかりさせてはならぬという判断がわたしの美術鑑賞へのアプローチを歪んだものにした。多大な賞賛を受けた作品は素晴らしい、いつの日かこれらを鑑賞する資格と能力が備わるはずだとわたしは信じた。わたしはあきらめなかった。

ヒトはひとたびその心に嘘を抱え込むならじわじわとすすむ脳の劣化を免れない。あるときわたしは美術館の展覧会で絵画を眺めていた。わたしは目眩と吐き気に見舞われた。誰か教えて欲しい、どこを見ればいい、何を考えれば感動はやってくる。わたしは誰構わず尋ねたい衝動に駆られていた。

題目は英語ではsubjectだがこの言葉には「落ちてくるもの」という意味合いがある。

絵画の価値や審美眼の有る無しを論じるつもりは無く、ただ言いたいことはわたしは長いあいだ待っていた。わたしに落ちてくるなにかを待っていたということである。

この数日ドイツのケミカルレースのシリーズを模写している。切手はチェコの国境近くのプラウエンの伝統工芸で1973年のものであるが、もちろんケミカルレースという分類やそれがドイツのものであるということも当初は全く知らずになんかいいなと眺めていた。

ケミカルレースの模写の直前にサンマリノ共和国の切手の麦の穂を描いていた。豊かに実った歩留まりの良いパン小麦。小麦の一粒一粒を楽しく描いた。まるで畑で収穫された小麦がわたしにパラパラと降り注ぐようだった。ようやく落ちてきた。待ち望んでいた。それはおそらくは初めてわたしに落ちてきた絵画なるものの題目だった。

芸術療法〜⑶嘘

いくつかの心を動かされる絵画や彫刻作品をじっくり鑑賞するとそれが痕跡や傷跡に似たものを発しているように思えることがある。それはただ単にわたしはそうした分野の作品に心を動かされる傾向を持っているという事実である。

白い紙に万年筆でジーっと線を描く。未だに模写だけを描くという習性を持つわたしは、自分の引いたその線が当たりか否かを瞬時に判断し、違うな、これは違うとなれば万年筆はホワイトインクで消すしかないので修正はじっさい手間である。

消しゴムで消えやすい柔らかい鉛筆の描く線はたいてい太くて正誤の見極めがし辛い。それでどうにか消しゴムで消せる硬い芯のシャープペンで細い線を描き、その上から万年筆でペン入れをする。複雑な図案の線画を描き進む。完成。切手等の模写は拡大しながら描き進む。完成してもこれはなんかどこか違うなという気味悪さが付き纏う。

1日数枚の古い使用済み切手を模写している。切手は楽しい。国や地域によってデザインに作風がある。切手は風が吹いたらパラリと飛んでゆくよな紙片である。しかしおそらくはこうして切手として印刷され販売されるまでには幾人もの人手が加わっているのだと考えるとそれはとても興味深い。

昨日わたしはシャープペンで完成した下書きを一旦全て消しゴムで消して何もない白い紙にした。そろりそろり慎重にシャープペンの下書き線をなぞるのがどうにも苛々したのだ。脳内の下書き記憶の痕跡を辿りつつ白い紙に万年筆でさっさと描き進むのは爽快である。

こんなに毎日絵を描くのは生まれて初めてのことかもしれない。日々模写の反復を続けていると脳内の緊張や集中が薄まりゆく心地よさがあった。天才でもない限り一発で嘘のない線を引き当てることなど出来ないという言い訳も湧いてきた。

昨日は魚を描いた。切手はポーランドのもので魚は鯉であった。魚を描くのは2匹目で、数日前に昭和の日本の切手の赤い金魚を描いた。

ポーランドの切手の鯉はその顔に歌舞伎役者風ペイント模様があり、わたしはひとすじひとすじにかつてない緊張を覚えた。この紋様のこのラインの角度の違いはこの魚の顔となるからだ。

鯉を描きながら数日前に描いた金魚を見る。もしもこの2匹を同じ水槽に入れたとして金魚はこの鯉を見るだろうか。初対面の鯉の印象はどんなものか。そんな馬鹿なことを考えてひとり苦笑する。

仕上がった鯉は屈強な印象の野性味に満ちた鯉。ポーランドの鯉など見たことはない。統一感に乱れはないが逆にまとまりが過ぎてそこら辺は嘘っぽく見えた。もう色も塗り終えてやり直しは出来ない。

もっとやり直したかったのは金魚の方だ。昭和の日本の金魚はポーランドの鯉と同じくらい強い魚に見えた。これは違う。昭和の日本の金魚の儚さや可愛さがまるで無いよなあ。

いつしかわたしは一本の線の正誤からは遠くかけ離れた世界にいた。わたしは金魚であり、すっかり金魚の気持ちになっていたのだ。ねえ描き直してよという昭和の金魚の声を聞いたのだ。

芸術療法〜⑵線を探す

今年の秋の沖縄旅行でわたしは毎日海を見た。満潮の海や漣の海、日の出やサンセット。わたしの滞在したうるま市勝連は太平洋に突き出した半島で、景色の何処かに常に海が紛れ込んでいる場所だった。

海には心が癒されると言う人はとても多い。果たしてそうだろうか。わたしの心はそんなに簡単ではない。わたしにとっての初めての海は幼児の時に親族で行った海水浴だ。わたしはそこで砂浜を練り歩く吹奏楽団を見、長い間わたしにとって海の記憶はマーチングバンドの記憶であった。記憶はそれ自体は正直なものだ。そしてDIDの脳は1度に1枚しか撮れない日光写真。不便な脳。あのマーチングバンドの海とここ数年の沖縄の海の記憶は1枚1枚が並列に平板に脳に取り込まれている。

今では白い紙に一本の横線を引いて水平線と言うとそこには瞬く間太平洋が現れる。幾日も海を見続けるという体験をすればきっと誰でもそんな魔法を身につけることが出来るのではないだろうか。

サヴァン症候群という脳の故障がある。サヴァンと聞くと天才的に絵画を描く人という解釈をしがちだがサヴァン症候群はひとりひとり個体差のある脳の損傷である。わたしの子ども時代サヴァン症候群だと褒めそやす大人にわたしは出会えず、わたしはひとくくり変な子どもという扱いであった。自分の感性の制御出来る部分とそうでない部分を幼い経験から不器用な操作をし、どうにか普通のフリをし続けることがわたしに課せられていた。

サヴァン症候群もまた当事者でしか知り得ない辛酸がある。わたしの描く絵は評価されなかった。わたしは平板な版下のような線画を描くことを好んだからだ。

芸術療法は絵画作品の評価とは別次元のものである。そんな序章の言葉をこうしてここに書くだけでわたしは気持ちが楽になる。小心者だと笑われるかもしれないがこればかりは真実なので他に言いようがない。

わたしの絵画が評価されなかったもう一つの理由はそれが著しい模写だったからだ。子ども時代のわたしはひたすら見たものの線を取り込んだ。子どもらしいあどけなさや生き生きと溢れ出る赤や黄色の色合いはそこにはない。わたしは一本の線を歪みなく描くことに神経を集中させる。一本の線の歪みに過敏に反応するわたしを親や教員が'歪んだ子ども'と捉えた光景は今はなんとも滑稽に映る。

さて芸術療法に戻ることにしよう。さあ線を取り込もう。わたしは自分にこんな言葉を掛けてはすべてのものを好ましく眺め模写をするのだ。

一本の線を描く勇気。画用紙の一本の横線は水平線である。遠い昔のマーチングバンド。わたしの海は今は凪いで友人や家族の笑い声がきこえる。一本の線を描く。こんなことが自己開示だと言ったら芸術療法の専門家たちはわたしを笑うだろうか。線を描くことのなんと快感なことか。だから大丈夫、無理解も困惑も大歓迎。どうぞ笑ってやってくれ。

芸術療法〜⑴鬼胎として

鬼胎という言葉は聞き慣れない。鬼胎とは文学用語ではなく医学用語で、不健全な増殖をする胎細胞を指す。

DIDの自己開示を妨げる力動はたいへん強い。それを発するな、それを他人に告げるな。その警告は内なる声であり、わたしはわたしのその声のはじまりがいつからのものであるかを思い出すことが出来ない。

一般的な芸術療法の手法は優しい雰囲気を持つ。自由に、または思いつくままに。これは評価ではない、貴女は何を描いても良いのです。

DIDの全ての自己開示は偽りである。じっさいは本人にもそれが嘘だということがわからないのだ。自由にありのままにと言われてふっと出てきたものが極めて本物らしい偽りだったのだ。

治療者は患者をDIDであると診断したならば、DIDの発する自己開示を先ずは疑うのがいい。DIDは自分を隠して生きてきたからだ。鬼胎としての己。DID患者はお前は生まれてきてはならなかった、という強い声にのみ牽引され生き長らえてきた。

じっさい芸術療法は至る所で採用されている。例えば学校の美術の授業で教員は時折教科書を見ないで、などと言うが(それは模倣をしないで、という意味合いだが)、こうした要求に不自由な脳で立ち向かうことを繰り返してきたDIDは少しの偽りを混ぜた即席の自己開示の反復により自分自身をも欺かれている。

芸術療法の目標は自己開示であり正しい自己開示は自己と世界を正しく繋ぐ。

たとえ生まれ落ちた瞬間から鬼胎として生かされて来たのだとしてもこう見えてもわたしは命を持つ1人の人間なのである。

様々な経緯で木彫り熊を手習いしている。彫刻刀を持つ前に熊の絵を描く。熊の顔。熊の耳。熊の背中。熊を描く。一本の線を描く。ある時わたしは溢れる涙を抑えられず、いったい脳の中で何が起きたのかのだろうかといろいろなことを考えた。

わたしにとって熊は鬼胎としてのわたしの真実であった。

熊はダメ。今はそんな声と折り合いをつけるべく、見るだけなら、とFacebookで熊の写真を時々見ている。自由に、思いつくままに。熊を脳内に放し飼いにするかのようにである。

幾つかの治療法〜⑦芸術療法

DIDの回復について、当事者と当事者の家族、また治療者とではそれぞれが異なるイメージを持っている。

当事者は今まで通り何人かの自分のままで生きていきたいという思考をいつまでも捨てきれない。家族は治療が進めば愛する人の奇異な部分が少しは人並みに近付くという期待を持っている。

治療者の考えは当事者であるわたしには正直わからない。ある時は今日生きていることを褒めてくれるし、ある時は変人で良いと慰めてくれる。良質な治療の主導権は当事者の今その時だという双方の了解は、傍目には医師がその権威を捨てて患者に媚びているかのように映ったとしてもけして揺らがないものだ。

回復とは何か。

回復とは癒すことであると、それがまるで壊れたアスファルトの道路の復旧だとする第三者がわたしは大変苦手だ。

DIDの病理は単純な愛情の足し引きではない。目の前の道路にアスファルトが敷かれたのはほんの数十年前のことであり、その道路の'ほんとうのはじまり'を知る人はじつはどこにも存在しない。

DIDは人格の故障であるとして、今すぐ熱いアスファルトを被せることが復旧だと考えている単純慈愛派(DID患者には生育期に欠けていた親の愛を埋め合わせよと主張する人々)やマイノリティ救済派(DIDの回復を個々のジェンダーの獲得と混ぜこぜにして弱者救済だと主張する人々)の鉄壁の優しさはじっさい当事者には虐待の再現に真っしぐら向かうパラドックスとなる。DIDは違反と歪みに慣れているからだ。それが見当違いであればあるほど受け入れることは容易い。

DID患者とは。日々わたしは誰?をくり返すしかない当事者にはアスファルトフィニィッシャーではなく掘削機をこそが必要なのだ。

芸術という響きは重々しいがアートでは軽々しい。ひとりひとりの人間は個々の感性を持つ。感性は発達するし衰退もする。

DID患者はれっきとしたひとりの人間である。わたしはほんとうのわたしを知らねばならず、今ここに居るわたしが誰だとしてもここからはじまるしかない。

思考の掘削とは平たく言えば表現である。掘削機は絵筆になったり彫刻刀になったり、こうして言葉を使ってイメージを組み立てたりする作業であろう。

DID患者にもちゃんと人としての思いがある。人を殺したかもしれない荒んだ心がその荒んだ視線の先に美しいものを求めることがあることをわたしは知っている。わたしはそれを知っているので治療をあきらめないのだと思う。

芸術療法としてランダムに色彩と造形、表象における醜美などを今後論じてゆきたい。

幾つかの治療法〜⑥転地療養

俗に田舎暮らしが疲れた脳に良いと言うが、わたしはじっさいに田舎暮らしをしてみるまでそんな定石には反論していた。コンビニ&古本屋依存症。賑やかな街が大好きなのだ。わたしは街灯の無い場所が怖くてたまらなかった。

転地療養の定義は日常を総替えすることである。人口密度の高い下町育ちの人ならば閑散とした田舎の景色が脳のリフレッシュになるかもしれないが、そもそも田舎で育ったわたしは今も不便さを強いられることにはストレスを覚える。

転地療養とは何か。転地療養をしていますという施設に入所する、もしくは転院をして治療そのものを総替えする。転地療養というからには治療であるが転地療養は公費補助の対象にはならない。転地療養の一環として温泉旅行をしてきました、と市役所の福祉課へ領収書を提出しても?という顔をされてしまうだろうな。

転地療養については結論がでないままである。日常から切り離されることで脳内はリフレッシュするかもしれないがその目的は?だってまた帰ってくるんだもん。何のためにわたしは帰ってくるのだろう。

障害者となり仕事を失い家族の世話になって暮しているのだ。転地するなら徹底的に転地したい。帰ってくるつもりなら転地ではない。

振り返ってみればわたしは自分で考えているよりも環境に左右されることが少ないようである。わたしは視野が狭い。わたしが環境といってもそれはせいぜいが半径数メートルくらいのエリアのなのだ。

手足が伸ばせ横になれるならそこが田舎でも下町でも正直構わないのだ。ビジネスホテルでも相部屋でも一向に平気なのである。

本を読み音楽を聴く。いつもの如く、脳内では熱心にどうでもいいようなことを別のどうでもいいようなことに結びつける作業が続く。深呼吸。水を飲みパンを齧る。話し相手はあればあったで悪くない。よく話す人の話を聞き、黙っているのが好きな人だとわかれば様子を伺う。

転地療養を環境を変え、ストレスフリーを目指す定住を目的とする移動と定義するなら、おそらくわたしに効果ありであった転地療養とはむしろ、その移動をする移動中の状態を指す。バスや電車や船の窓からみるその景色なのである。転地療養の転は転々の転。

それが何故効果的なのか?それがわかんないんだよね。

脳内で飛びまわり'はてな'という壁に当たっては跳ね返る素粒子たちが移動中だけはおとなしく窓の外を見ているのだ。

旅に'はてな'なんてない。いや旅は全て'はてな'だ。あれは何だ?あれは何だ?ああもう考えるのをやめよー。

山を越え、海を越え、駅を過ぎ、幾つもの町を行き過ぎる時間の滞在の効果なんである。

幾つかの治療法〜⑤運動療法による疼痛マネジメント その2

DIDの疼痛はひとりひとり異なるし、私見だがDID患者の疼痛はきっちりと分類すべきだと感じている。痛いときには「この痛みはなんだろう」という当事者にしか出来ない熟考をその都度すべきである。急性の危険な痛みを心因性のものだと決めつけて重篤な疾患の治療を遅らせることは避けねばならない。

さてDID患者の多くはその子ども時代にカラダの痛みを訴えてもそれを直ぐには受け入れてもらえず結果我慢して過ごしてきた。その始まりの年代は幼ければ幼いほど、これからわたしが書こうとしているDIDにおける難治性疼痛症の頻度は増す。

意外な事実であるが慢性痛、つまり慢性的な痛みとは長く続く痛みのことを指すのではない。初発の痛みを脳が認識してのち、脳内で生じている複雑なメカニズムによりその初発の痛みが「なんらかの理由から」再発することがある。再発痛とは「もう痛くないはずなのに痛む」ということである。ここではこの再発痛を慢性的な痛みと定義する。

痛みのメカニズムの特徴のひとつに痛みへの脳内物質の反射的分泌というものがあるが、幼くして再発痛を繰り返しているうちにここら辺の反射的分泌はもはやなんの反射的作用もしなくなってゆく。

そのようにしてDIDは幼児の時代から「痛いの痛いの飛んでけー」の魔法を身につけるのだろうか。痛みを和らげる幾つかの脳内物質、それら脳内物質を反射的分泌するためのカラタのあちこちのホルモン分泌。DIDは四六時中起きる再発痛への対処で、生理学的にはまったくのミラクルな状態で生き続けてゆくと言っていい。

もちろんわたしはアマチュアであるし、医学というものは日進月歩。この記事に何かの間違いがあれば率直に指摘して頂きたい。解離と脳内物質についての医学論文に興味のある方はそちらを読まれる方が宜しい。

わたしが取り上げたいのはひとつのことである。

再発痛はたとえ再発痛であろうとれっきとした痛みなのだ。その医学職の相違から、内科、整形、神経、婦人科とドクターショッピングをしたのち、原因が見つからないという理由でそこかしこで患者は「気のせいですよ」と言われるだろう。

「気のせい」だとしても当事者は充分に痛い。精神科以外で飛び交う「心因性」という言葉に含まれる医師たちのメッセージは皆「我慢できるんじゃない?」であるし、当事者たちはじっさいにいとも簡単にそれを受け入れ長い年月を我慢してしまうのだ。

忍耐を美徳とする文化的背景が解離の疫学のひとつかもしれない。

健全な日常にも忍耐という名の解離はある。日常生活に於ける解離的な変成状態としてパトナムは幾つかの項目を挙げている(2001年、p256)。宗教に於ける転向心理、薬物による神秘的体験、嗜癖による自我の分裂、長時間の受動的テレビ視聴による誘発的行動、そしてテレビ以外のメディアのバーチャルリアリティによって開く窓。

わたし自身はこれらを解離的で病的だと否定し非難する気は全くない。今の時代、なんなら解離よりも身近な危険は溢れているのだ。癌死は2人に1人、交通事故死も然りである。

パトナムは日常生活の解離としてスポーツを特筆している。ではスポーツは危険か。スポーツはいけないのか。

わたしが言いたいのは、運動療法が運動によって解離を起こすのではないということだ。そしてDIDは解離を自ら起こしてきたわけではない。

もちろん先ほど「痛いの飛んでけー」の魔法と書いたがあれはむしろ人体のミラクルへの畏敬から書いた。数々の苦痛をDIDの人体は回避してきた。人体機能はいつもオートマチックにだ。痛みでは死ななかったのだ。解離も当事者には止められなかったのだから。

わたしが走り続ける理由はロマンチックに言えば自分を見つめるためである。自分の手足や自分の心臓の音を聞くためなのである。そうしてカラダ全体を自分の所有物だと正しく捉えるのだ。

利き足でない方の足が上がりにくいことに気づいたのは走り始めて1ヶ月のころだった。1キロを8分ほどのゆっくりペース。わたしはわたしの意思で走っている。走るだけ。一文にもならない。誰にも迷惑もかけなければ誰も得することがない。小雨ならばむしろ喜んで走る。何故だろう。雨の中を走るのが好きである。

いろいろなことを考えながら走る。わたしは走ると頭痛は消える。もちろんそんな論文はまだ読んだことがないから「走るのが効くよ」とここに書くわけにはいかない。

我慢も忍耐も辛抱も、じつのところわたしは大好物である。DID患者に「我慢しなくてもいい」と言ってはならない。我慢してなんぼの人生を歩んできたのだ。いきなり辞めろと言われてもやり方がわからない。

ランニングは我慢の辞め方を習得する方法でもある。疼痛マネジメントとしたのはじつはDID患者の疼痛を一切無くすことは無理かもしれないと思うからだ。

だけど「毎日走っています」というと何科を受診しても褒められますよ。これマジ効くよ。

おすすめでーす。

幾つかの治療法〜⑤運動療法による疼痛マネジメント その1

DIDに限らず今の時代原因不明の痛みで病院通いをし続けている人は少なくない。DIDの治療法のなんやかんやを書こうと思うと「痛み」について書くことから全く遠ざかることが出来ない。ただし体のどこかに原因不明の慢性の痛みがあるからと言ってその原因がDIDであるとするつもりはないし、片やDID患者の痛みの全ては完治出来ないと言い切るつもりもない。

運動療法という呼び方が正しいものなのかがアマチュアのわたしにはまずわからない。

DIDの治療が何を目指すとしても日々の暮らし、日常生活の質を向上させることは何は無くとも必要である。

痛みを訴える患者に対して見者らはその専門性の違いから様々な鑑別を行う。

神経内科、神経外科などの神経生理学者は痛みは神経学的異常より起こる事態だとする。整形外科医は痛みを生じさせている筋骨格系の不具合を細密に観察検索する。

わたしたちは痛みが生じると先ずそこに手を当てその辺りの何かの損傷を疑う。先生腰が痛いんです。頭が痛いんです。

わたしの整形外科の主治医はたいへん勉強家で(大丈夫皮肉じゃないですよ、これ)、あるときわたしに興味深い説明をしてくれた。それは痛みには2種類の痛みがあるという話で、それは急性の痛みと慢性の痛みであるということだった。

損傷の痕跡、もしくは損傷の回復の痕跡が見られ、もう充分に健康体であるにもかかわらずわたしから「痛み」が無くならないのは何故か?この主治医は整形外科医なので自分の仕事はここまでである、と言い、貴女の痛みは慢性痛である、これは近未来の重症な疾病の警告でも、現在進行形の筋骨格損傷のいち症状でもない。これはいわば「疼痛症」という名の単独の疾患なのである。お話はそんな感じであった。

わたしがこの話のわかる整形外科医に著しく依存したことは言うまでもない。彼もまたわたしが痛いと言えば体のあちこちに出来る範囲でキシロカインを静注してくれたのだが、そんなことでDIDの治療は進むはずもなく、やがてわたしと主治医との短い春は終わった。わたしの痛みは益々増してゆくという事態を起こしてしまうのである。

これより少し時間を遡り、わたしのDIDを見出した内科のクリニックの主治医に掛かっていたころに、わたしは自分の近未来の疼痛症状を予見していたかのような細密な調査をしていたことがあった。

当時のわたしは両足首の関節痛で歩くことが出来なくなり自走は出来ないタイプの車椅子を購入して日常生活を過ごしていた。病名は幾つかの自己免疫疾患の疑いであった。

自己免疫疾患ってなんや?

内科のクリニックの主治医は元は大病院の麻酔科医だったのでこ難しい話がたいへん得意で(これは皮肉ですね、うん)、わたしは様々なレクチャーを彼から受けた。

わたしの足首は歩けないほど痛いけれと足首にはそもそも何があるの?

軟部組織だよ、痛みは炎症だよ、でもその類の炎症には損傷は伴わないことが多い。菌が入ったわけでもない、ウイルスでもない、自分で自分の細胞を攻撃しているんだ。

そのときの幾つかの自己免疫疾患の疑いは今では診断されたものもあるしステロイド治療も経験したが、何ヶ月か続いた足首の激痛はあるとき嘘のように消え、わたしはその時の車椅子は知人に譲ってしまった。

とはいえわたしにDIDであるがゆえの疼痛症状が消えたわけではない。次の記事では現在進行形のわたしの運動療法を具体的に書いてみたい。