解離性同一性障害の当事者の記録

主観的な、DID患者としての日々の徒然です

別れ

https://www.instagram.com/p/B5D-fwwJt4D/

https://open.spotify.com/track/2qdLHldd6a7HBItxxfBcwl?si=C_kdRxZ-RYCOuvp2kSv6-Q

大橋トリオ'忘れない'


誰かと別れることは寂しいはずなのにDIDである私はこれまで寂しければ寂しいほどその感情を塗り消して進んできた。だからこのたびのこの別れの余りの堪え難い寂しさに直面して根拠もなく的外れな強い罪悪感に苛まれている私に、君のせいではないからと納得をさせてくれる心の声に感謝しています。よおく耳を澄ませばそれは夫や友人の声であり長く慣れ親しんだ良心の源からやってくる交代人格たちの声のようにも思われます。今も自分がDIDである事を悲しく恨むことがあるけれど、もしも私がDIDでなければ彼には出会えなかった。この先のことを思えばほんの短い期間の出来事でした。有難う。これまで本当にお世話になりました。私は今そんな気持ちです。

お知らせ

これまでfridayusaoのブログを読んでくださってありがとうございました。このたびブログを引っ越しました。相変わらずの偏屈で拙い文章ですがお暇な時にでも覗いてみてください!どうか皆さんお元気で!

f:id:fridayusao:20170602222754j:plain

http://marihakobo.jugem.jp/

芸術療法〜(32)モズク採り

モズク採りが単純に脳に良いということではない。

わたしは沖縄でモズク採りをしたその日、浅い海でゆらゆらと繁茂するモズクを手でちぎって、そのままその場で食べたのである。例えば栽培農家がりんごやイチゴを観光客に食べさせるレジャーがある。これまでわたしは積極的にその種の場所へと出向くことはなかった。

糸満市の道の駅には大きめの鮮魚市場があり、食べてみたい魚を刺身で食べられるシステムがある。貝殻に盛られた一人前数百円の新鮮な刺身を幾つかトレーに選んで会計してもらう。この魚の丸の姿はどれ?と店のお兄さんに尋ねると隣接する場所の赤や青の魚を指差して教えてくれる。

わたしはその日高瀬貝という貝を食べた。高瀬貝はお土産屋さんで売っている三角のカタチの美しい貝である。味はなんとも言えない個性的なもので旨味はある。問題は食感で、部位により異なるが最初にひとくち食べたところはまるで蒸したササミであった。後半はアワビに似ていてなかなか宜しい感じである。

イートインスペースは共用でわたしの隣の現地の婦人が高瀬貝食べてるの?シャコガイ食べたらいいさと笑った。ここは昔は食べる場所なんてなかった、観光客のために作ったんだね、買った魚をその場で食べるなんてほんとにハシタナイさ。婦人は独り語りを続けている。婦人は既に食べ終わっていて、いったい何をチョイスしたのか確認出来ず無念。

モズクを海から取ってすぐ食べるというのは要するにモズクを水道水で洗わないということ以上の意味がある。つまり調理をしない、モズクの踊り喰いである。モズク採りの面々が皆モズクの踊り喰いをしているわけではない。わたしはモズク採りは初めて。このモズクほんとに食べられるのか。そんな確認をせずには居られなかったのだ。海水ってショッパイなあ。なんでかなあ。モズク採りはなかなかエキサイティングである。

芸術療法〜(31)海

海に入る。砂浜を水平線へ。じゃぶじゃぶ、じゃぶじゃぶ。しばらく歩く。潮の引いた海は至る所くるぶしほどの浅瀬ではあるが、前方も後方も確かにそこは海であり、右も左もそれは海であった。

わたしは足元の水面の揺らぎを見た。水面は揺れていた。不均一に多方向に。揺れては打ち合いぶつかっては広がった。さざなみは発展し進行した。それは掴み所なく。そして伸びやかに。

後ろはどうだ。わたしの後方の浅瀬もまた、そこは一面の水の紋である。よく見ると紋は連動している。はじめは小さな紋様が進むにつれて大きな紋様になる。水は育っているのか。それとも薄まってゆくのか。

水の紋がわたしの両くるぶしをぐるりと取り囲んでいた。いったい誰がこんなふうに海を揺らしているのかと、そんなことを考えながら耳をすまして風の音を聴いてみる。わたしは風を感じた。気がつけば風もまたわたしを包んでいたのである。

芸術療法〜(30)胡瓜

わたしは胡瓜がとても好きなので胡瓜を買った日は胡瓜のことをしばらく考えている。何故自分がこんなにも胡瓜が好きなのだろうということや、胡瓜ってどうしてこんなに美味しいんだろうとかそういうことです。

10年以上前のことだがわたしには胡瓜嫌いの友人がいた。彼女は胡瓜と西瓜が苦手であった。胡瓜は駄目よ。わたしは今でも胡瓜を見るとそんな風に言っていた彼女の困った顔を思い出す。

不思議なことだがたとえ彼女がどれだけ胡瓜を否定していたとしてもわたしの彼女への信頼と彼女との絆は揺らがなかった。少なくともわたしはそう感じていた。

彼女のためにご飯を作るとき、わたしは念入りに胡瓜を排除することにやぶさかでなかった。わたしは胡瓜も好きだが彼女のことも好きだったのだ。

今日はふと考えた。果たして彼女はわたしのことをどう思っていたのだろう。わたしは彼女の困った顔を見ながら自分だけ胡瓜のサンドイッチをニコニコと食べていたりした。おそらくあのとき彼女は胡瓜好きのわたしに嫌悪を抱いていたに違いない。

わたしは無作法だった。わたしは胡瓜を優先したのだ。あのとき胡瓜よりも彼女を大切にすべきだっただろうか。

今日は'胡瓜のキューちゃん'の作り方を読んでいる。3ヶ月も胡瓜を塩漬けにするやり方や4回茹でこぼすやり方など'胡瓜のキューちゃん'を作るには結構胡瓜を酷い目に遭わせるようだ。

ねえねえどうして胡瓜が嫌いなの?わたしは純粋に疑問を感じて胡瓜嫌いの彼女にそんな風に尋ねたことがある。そのときに彼女がなんと答えたのかを今は全く思い出せない。では果たして彼女は'胡瓜のキューちゃん'も嫌いなのだろうか。

きっと食べないだろう。彼女はストイックな人だった。そして自分の心に正直な人だった。周囲の人々に大人気ないとされようとも自分の皿に胡瓜が混ざってやしないかをチェックせずには居られない。彼女はそんな一生懸命な人だった。そういうところ。わたしは彼女のそういうところが好きだったのだ。

芸術療法〜(29)遠吠え

狼の遠吠えみたいにやってみようか。声楽教師が言った。やってみる。1発目は失敗。二投目やや良し。狼オオカミおおかみ。念じながら吠えてみる。なんとなくこれは遠吠えである。吠えることのなんと気持ち良いこと。

熊の足跡と爪痕で腰を抜かしたわたしは何故だか以前のように歌うことが出来なくなってしまった。声楽教師は言う。

なんていうか歌うってさ、特別なことじゃないわけ。息吸って吐いて、また吸ってまた吐いてさ。そういうのにただ声を乗せてね、こう遠くに飛ばしてるわけよ。おーい聴こえてるか、ってね。

鼻で息吸える?そう鼻で。鼻で吸うと息が背中の方に入るでしょう。あのさ、ひだりの鼻の穴で吸ってみて。左だけ。なんでかは知らないんだけどひたりの鼻の穴で息を吸うとリラックスするようにヒトのカラダが出来てるらしいんだ。可笑しいはなしだよね。

まだ背中痛い?一回インナーマッスル遣っちゃうと直ぐには元に戻らないよ。いいよ無理しない無理しない。思ってたより声出るようになったでしょう。大丈夫直ぐ戻るよ。

あのさ、これからもこうやってああ前もこういうことあったな、っていう場所に戻ることがあるかもしれないんだけど、例えば6年生になったのにまた3年生に戻っちゃった、みたいにがっかりしないって約束ね。マミちゃん出来るよね。頑張ろう。そうそう基礎トレだよ。

今日帰ったらYouTubeで誰かが歌を歌ってるやつ、他のヒトが歌を歌ってる動画観て真似してみて。観れない?なんでよ。‥‥そうか、気になるか、そうそう顔とかね、ドレスとかね笑。確かにイラっとくるやつ多いもんなあ笑。

声楽教師は哀しげに俯いた。いろいろいろいろ。わたしは目に涙が滲んだ。果たしてわたしは再びわたしの歌を取り戻せるのだろうか。歌うたいへの道のりは遠い。俺の遠吠えがいったい何処の誰に届くというのか。歌うことになんの意義があるというのか。

芸術療法〜(28)人形を作る

大量のワイヤーを頂いたのでワイヤーを骨にした人形を作った。昨日は這い熊を作った。這い熊というのは四つ足で踏ん張る野性味のある熊のデザインのことで、木彫りの熊デザインのひとつ。

最初に作ったのは二足歩行をする兎の人形だが大きな蝶ネクタイを付けてニッカボッカをはいているから厳密には骨格は兎ではなくヒトである。顔の2倍以上の大きさの耳を頭のてっぺんに載せた。

この奇妙なバニーを作るのは大変楽しい作業だった。肩幅はこれくらい、膝下と踵。何も考えなくよい。何しろ鏡で自分の顔を見るより多くの回数わたしはこのバニーを脳内で目撃しているのだ。

ワイヤーで作った肋骨の輪郭にアルミ箔を載せて手でぎゅっと押してワイヤーとアルミ箔を密着させ、そうして出来た面に塊の紙粘土を大胆に貼ってゆく。腕と脚は極細だけれどお尻はふんわりとさせる。

松竹座の役者が大見得を切るときのように威張っている姿勢で完成させた。もう一体作ろう。作り始めは細いワイヤーを緩く縒り合わせる作業が続く。縒り合わせたワイヤーは自然なカーブを描いてくれる。

紙粘土を付ける前にわたしはまたしてもワイヤーを縒り始める。もう一体作ろう。今度は少し小さめ。幼かったころのこのバニーを作りたくなった。耳も小さめ、手脚も若干短く。小さな体にあつらえた子ども用のニッカボッカを履かせる。

紙粘土を付ける前のワイヤーバニーたちにいろんなポーズを取らせてiPhoneで写真を撮る。楽しいではないか。木彫に比べワイヤーと紙粘土の人形作りはなんだか気楽な雰囲気である。

力つき眠った翌朝目覚めるとワイヤーバニーたちが壁で踊っていた。アートだ、これはアートだと主人がピンで貼ってくれたようである。そういうわけでワイヤー這い熊君を作ったのだが何も無かった壁が賑やかになった。踊るバニーと熊人形である。